アルベール・カミュ『異邦人』

きょうのことば

 「これがこの裁判の実相なのだ。すべて事実だが、また何一つとして事実でないのだ!」〈被告人・ムルソーの弁護士〉

 ──アルベール・カミュ『異邦人』より

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 アルベール・カミュ『異邦人』(訳・窪田啓作)を読みました。本作についての批評、というより論文になってしまいました。大変な難産でした。仏文を専攻する大学生の方に参考になるかはわかりませんが、読んでいただけたら幸いです。

 ──きょう、ママンが死んだ。
 有名な書き出しで始まる小説『異邦人』。おそらく高校生以来の再読ではないだろうか。本作の主人公・ムルソーの行動基準に則して言えば、改めて読むに至った経緯は「特にない」とでも言ったら良いだろうか。名作とされる小説に挑むと、肩の力を抜くことができない。名作を名作と感じるだけの共鳴板を私は果たして持ちえているだろうか、との気持ちにこころが乱されるからである。あらすじから紹介していこう。

 

【第一部】

 小説は第一部・事件篇、第二部・裁判篇といった構成となる。第一部は有名な書き出しから始まり、アルジェリアは首都・アルジェとその近郊を舞台に、母の葬儀がしめやかに執り行われる様とともに重々しく幕が開く。極めて沈鬱な風景を背景に。
 読み始めは主人公・ムルソーにとって、母の死がまるで彼の心に何も呼び起こさないことに驚いた。しかし、母の葬儀のために会社に休暇を申し出たところ、上司が不満気にそれを受け入れた事実もあってか「ははぁ、これは都市生活者の物語であるな」と思われた。都市生活者にありがちな、肉親の母でさえ死を悼 (いた) む暇もなく、感情が摩滅した人物像なのかと慮 (おもんぱか) った。つまり、母の死が日常の慣性 -イナーシア- に蹂躙 (じゅうりん) され、母の死を我が身に引きつけて考えられない。「自分のせいではないのだ」と言い聞かせる主人公にそんな印象を持った。
 当然であるが、母の死は場末 (ばすえ) の町の日常を変えはしない。これも日常の慣性 -イナーシア- ゆえだ。どんなに互いの顔の見える小さな場末の町であっても、若者たちは相も変わらず、日曜には映画を観に街へ繰り出し、サッカークラブの勝敗に一喜一憂し、電車は規則正しく動き、猫は人気の絶えた通りを往来し、ムルソー最愛の母の死など歯牙 (しが) にもかけない人びとを描いているのだと思った。

 もちろん、ムルソーも日常のイナーシアにこころが毒されている。母の死後もムルソーは相も変わらずよく働いた。決して狼狽 (ろうばい) することもなく、何事もなかったかのように振舞っていた。事実、それは気丈 (きじょう) に、というものではない。自然にそう振舞っていたように描写される。
 ムルソーは海運会社の勤め人である。年は二〇代後半ぐらいか。アパルトマンに母と二人で暮らしていたが、母は体を患ったものの治療させてやる手立てもなく、養老院に送ることを決める。本来は看護師をつけて養生 (ようじょう) させなければならなかったが、安い稼ぎもわざわいして、母に良い環境でちゃんとした看護つきで養老院生活を送らせることは難しかったことを少しだけ悔いている。


 第一部はムルソーが暮らすこのアパルトマンの隣人を中心に展開する。
 一人は老犬を飼っている老翁・サラマノ。もう一人はアラブ人の情婦を恋人に持つ女衒 (ぜげん) のチンピラ、レエモン・サンテス。それに恋人、マリイ・カルドナである。


 このアパートにはちょっとした名物がある。それは老人の飼い犬に対する罵り (ののしり) と絶叫である。老人はその飼い犬を憎悪と恐怖で支配し、部屋に粗相 (そそう) をしようものなら、ぶってぶってぶちまくる。なぜこうもいがみ合ってまで一緒にいなければならぬのかとアパルトマンの住人は思う。そんな折、この瘡掻き (かさかき) のスパニエル犬がふとした拍子に老人から逃げ出す事件があった。老人はショックを隠さず、実にさめざめと泣くのだ。
 同じことは人間様のレエモン・サンテスにも言えた。レエモン・サンテスもまた、情婦に対する罵りと絶叫を浴びせるきらいがあった。この痴情のもつれからくる殴り合いから情婦は出て行くが、レエモンは彼女を求めたくてしょうがない。ここにも老人と犬との同じ関係性が見いだせる。邪推するのは、ムルソーとママンもやはり同じ関係性だったのかもしれないということだが、もの言わぬ母のため、それは必ずしも描かれていない。

 さて、この独居老人の愛憎相半ばする飼い犬は、しばらく経っても帰ってこない。サラマノ老人から再三、犬の行方について質問される。彼はその時に初めて、サラマノ老人と犬との馴れ初め (なれそめ) を知るのであった。その犬は、老人の女房が死んでから飼ったのだという。「この死に損ない奴 (め) !」と罵る毎日を見させられた彼らだったが、老人と犬との八年の歳月の関係はおよそ愛に満ちた記録にも思えた。老人も犬も、どちらも死に損ないに見えると言えば言葉が過ぎるが、老人が妻を失って寂しくなり、犬を飼ったという経緯から、ムルソーにも「犬を飼ったらどうだ?」とまでは提案しなかったが、母親が亡くなって寂しいだろうと声はかけた。けれども、ムルソーはそれに対して答えなかった。

 一方で、ムルソーのあずかり知らぬところで、女衒 (ぜげん)、レエモン・サンデスの周辺はきな臭さを帯びていた。以前、彼が起こした情婦との痴情のもつれでアラブ人の一味から恨みを買っていたのだ。一味の中には、情婦の兄も含まれていた。そんな中、情婦との一件を解決してくれたことに報いるためのレエモンたっての願いなのか、レエモンの友人・マソンのアルジェ郊外にある別荘に誘われることとなった。そこでいよいよ事件は起きてしまう。アラブ人の一味にレエモンは付け狙われていたことを知る。匕首 (あいくち) を持ったアラブ人の一味を一時は振り払うものの、レエモンは大きな痛手を受ける。一体さっきの出来事は何だったのか……。ムルソーは一人になろうと思った。太陽や無駄な骨折りや女たちの涙からしばし逃れたいと思い、近くの岩陰の泉へ足を運ぶ。そこで再び、レエモンを殺ったアラブ人と鉢合わせてしまう。避けることが出来た戦いかもしれなかった。現に彼は少し前にアラブ人と面した時も、極めて紳士的にやり過ごした。相手の敵意を感じないかぎりは撃ちはしない。レエモンをそうして宥 (なだ) めたほどだ。太陽も幾重にもムルソーに折り重なって歩みを阻もうともした。しかし、彼はアラブ人を撃ち殺してしまう。
 第一部はこうして終わる。

 

 第一部を読んでお気づきだとは思うが、ムルソーには少し風変わりな性格が備わっている。ムルソーには困窮のためか学業を放棄せねばならぬ過去があった。それからというもの人生観は大きく変ったと独白する。読者も序盤からどこか主体性に著しく欠ける性格に苛立ちつつ読んだことだろう。恋人に言い寄られても、別段断る理由もないので結婚してもいい(ただしムルソー自身はマリイを愛していない)、という消極的なその言い種など、リストはいくらでも長くすることができるほどだ。なぜこのような性格になったのか、私の解釈については第二部を紹介したのち、後段で触れたい。

 

【第二部】
 さて、第二部である。
 一転、ムルソー拘禁の身である。警察、予審判事、弁護士それぞれから尋問・質問を受けつつ、特にムルソー自身ショックで狼狽 (ろうばい) する様子もなくたんたんと答えていく。
 その尋問の中では、ママンが死んだ日のことも詳細に訊かれた。ムルソーはあけすけにこう答える。

「健康な人は誰でも、多少とも、愛する者の死を期待するものだ」

 弁護士などはこれを聞いて血相を変えた。こんな妄言 (もうげん) は法廷でも、予審判事の部屋でも一切口にしてはならん!と。弁護士は、母の死を前にしてムルソーの心境がなんら揺り動かなかったことの事実とその〝異常さ〟に「もうやってられん!」と、憤慨して部屋を飛び出す。ムルソーは引き止めたのだが、その理由がまた面白い。ムルソーは、よりよく弁護されるためではなく、ありのままに起きたこと、自分が人を一人殺したこの事実こそを裁いてほしいと願ったのだ。ゆめゆめ読み逃してはならないところだが、ムルソー自身はなんら世間の普通の人びとと同じだということ自己認識を持っている。
 弁護士はもうムルソーの事件から手を引きたがったが、予審判事はことさらにムルソーに興味を持った。どちらかといえば興味、というより好奇の目にも近い。尋問内容は、ムルソーの性格から、事件の一日のあらましに及び、母を愛していたのか、そしてアラブ人の死体に続けて数発撃ち込んだことはなぜなのか、そして神への信仰を問うた。


「信じない」 

 ムルソーの答えである。この答えに予審判事は大いに逆上した。銀の十字架を抜き出し、まるで祓魔師 -エクソシスト- のごとく振りかざし、説教をする。ここにきて私も少し違和感を持つ。ムルソーにではなく、予審判事を含めた法曹の人間に対してだ。違和を抱えたまま読んでいく。

 無神論者を匂わせるような記述が端々に見られた第一部だったが、ここにきて初めて彼が無神論者だとわかる。彼は「肉体的な要求がよく感情の邪魔をするたちだ」と自分でその性格を述べている。これは要するに、最愛の母が死のうが、あまりに仕事に疲れきっていて眠たい時は眠たいし、喉が乾いたら棺桶の前でミルク・コーヒーを飲むし、およそTPOを弁える (わきまえる) という感覚が欠如しているということだ。非常に正直である。いや、正直に過ぎる。
 その後、日を変えて幾度かの予審判事による質問は重ねられたが、ムルソーは〝改心〟することがなかった。回を重ねるごとにムルソーへの興味は失せていった。期間は約十一ヶ月にも及んだ。もう予審判事は神のことなぞ語らなかった。「アンチ・クライスト」さんというあだ名まで頂戴したムルソー。こうして身柄は刑務所へと移される。そこでムルソーは真実を目にする。獄窓はおよそアラブ人でごった返していた。


 刑務所に入ってからは一つの知恵のようなものを得た。最初、ムルソーは思いのほか自分が自由人の考え方を持っていることに驚いた。こんな独房から抜け出て、浜へ出て海へと降りて行きたいと思ったし、紫煙を恋しく思ったし、女の体を思うとその柔肌 (やわはだ) を愛撫 (あいぶ) したいと思ったりもした。それでも数ヶ月暮らすうちには、もう囚人然としていた。足りないことはすべて想像で補ってしまえるようになった。ママンが生前よくムルソーに言って聞かせていた言葉を思い出す。


「人間はどんなことにも慣れてしまうものだ」

 結局、ムルソーはこういう考えに至ったのだと思う。刑務所で与えられる懲罰、つまり「自由を取り上げられること」もひと一人殺したということの償いになるとも思えない。では何が償いになるのかと言えば、自らの死を以って償えるのではないか、ということだ。というのも独房で古ぼけた新聞の三面記事を見かけたのだ。この考えによりいっそう拍車をかけるものとなったはずだ。

 三面記事のあらましはこうだ。出稼ぎに出た息子が故郷に錦を飾ろうと、四半世紀の時を超えてホテルを経営する母と妹に会いに来た。ところが、時は残酷である。彼の顔を息子であると判断できなかった母と妹は「大枚抱え込んだ旅行者がホテルに泊まりにきた」などと勘違いし、息子たる男を撲殺し、大金を盗んでしまう。ところが、その男の面が割れて初めてその真実を知ることになった結果、母と妹は悔やんでも悔やみきれず自殺してしまった──。そんな記事だった。やることがないから、その記事を何千回ともなく読んだと語っているが、極めて神妙にこの事実を受け止めている。この事実を面白可笑しく「からかうべきではない」と強く思っている。

 

 刑務所暮らしは長く続いたものの、ムルソーの罪は未だに決していなかった。そして重罪裁判所に再びかけられることとなった。
 開廷を告げる鐘がなる。ママンの死に際してのムルソーの一挙手一投足がただひたすらに問題にされた。ママンの死に際して、取りうべき行動をムルソーは何一つとしてしていないことの異常さが問題にされたのだ。

 結局は「無神論者が犯した事件」として括られ、一方的な裁判に終始した。「私には、情愛深い自己を示す権利、善意を持つ権利がなくなっていたのだ」とムルソーに語らせるまでに。「異邦人」とはこのことなのか。この気持は「異邦人」になってみなければわからないだろう。正義の名の下に執行される数々の蹂躙 (じゅうりん) 。ムルソー自身の結論は変わらないのだ。自身の死を以って初めて罪は償われるという確信。これ以上生き永らえることはしない。けれども、かつて私が愛していた娑婆 (しゃば) の世界の誰も彼もがこの裁判を好奇の目で見ているという事実はどういうことなのだ。これが神の教えを忠実に守る神の子たちなのか──。死刑を求刑されることはむしろ本望だが、その事実が、神の権威を笠に着る輩どもの永続のために差し出されるのは黙って見過ごせない。償いの宛先は〈社会〉ではないのだ。最後の抵抗がここに始まりを告げた。物語の終盤、父のことが少しだけ語られる。それはママンから聞く父の姿だった。ムルソーは父を知らない。父はある人殺しの死刑執行を見に行った時があった。父は何度も嘔吐 (おうと) に襲われていた。それは多分、死刑執行後の遺体のグロテスクにさではなく、広場を取り巻く民衆の嬉々とした表情のグロテスクさにこそ吐き気を催したのだろう。このエピソードは幼い頃のムルソーにとって、ただただ恥でしかなかったが、今となっては手に取るようにわかる。自分も父の子だったのだ──。

 この裁判もそう。酷く毒々しい裁判であり、民衆はグロテスクである。法廷の外では、今もアイスクリーム売りのラッパが頻 (しき) りに鳴り響いている。裁判の行方を好奇の目で見守る野次馬という上客のために。

 

 判決は検察の求刑の通り死刑である。それも広場でのギロチンによる公開処刑である。


 神の道を外れるとまるで異邦人のごとく取り扱われる。異邦人にさせられたムルソー。タイトルの「異邦人」になるほどな、と感得する。
 死刑執行までを待つ日々、教誨師 (きょうかいし) が再三にわたってムルソーのもとに面会に訪れるが、断固これを固辞した。それでも最後の最後は教誨師に不意を衝かれ、面会に到る。そこで抑制されていた感情が教誨師のある一言をきっかけに暴発した。神の信仰をめぐっての、裁判という多対一ではなくして、教誨師との一対一の決闘である。ムルソー最後の抵抗である。そしてすべてを吐き出し、平静を取り戻した今、ムルソーの唯一の望みは、処刑の日に大勢の見物人が集まり、彼らの憎悪の叫びに迎えられることだった──。

 

 第二部は御覧のように、信仰心の篤い (あつい) 法曹界の人間たちが無神論者・ムルソーを取り巻く展開である。ムルソーただ一人で、孤立無援であり、置いてけぼりで、自身の存在がなかったことにとして葬りさられるまでに逼迫 (ひっぱく) した戦いである。ムルソーの良いところは馬鹿のつくほどの正直さだ。つまり、殺人を犯してしまった以上、私はその過ちを償わねばならない、それも死を以って、と正直に思っている。前段でも述べたように、この償いの宛先は〈社会〉ではない。最初は弁護士や予審判事の方で、少しでも罪を軽くしてやろうとしていたが、彼にはその行為が全く理解できなかった。「神の名をみだりに語ってはならぬ」というが、この者どもこそ神の名をみだりに語り、権威を笠に着て「殺人」というムルソーの犯した罪を無きものにしようと謀っているように見えたのだ。それは重罪裁判所で扱われた二件の事件のうち、もう一方の尊属殺人の方がより罪が重いと検事らが価値づけているという一点で証明できる。ムルソーにとって、ひと一人殺すのはどのような形であれ許されぬものであり、その罪の重さに上下関係もへちまもあったものではないと思っていて、宗教心がこの等価な関係を歪めていると見えた。事実、予審判事のことを「神にお任せする」と誓っていながら、神になったつもりでいるかのような人間に見えてしまったのだ。実際、「アンチ・クライスト」と名付けたあたりからはもう神の名を語ることもしなくなった。つまり「自らの権威を高めるために存在する罪人(そして多くの被告はこの人々である)」ではないと予審判事が悟ったのだ。あけすけにいえば、お前なんかに用はない、ということである。
 私の推測だが、ムルソーアルジェリアの地で、アラブ人が虐げられる姿を日頃から眼にしてきたのではないかと思う。実際に獄窓に入り、アラブ人で刑務所が溢れかえっていることに驚いている。過去にも似たような事件はあった。しかし予審判事らから見て、同じ宗教を信じる者同士に思えたムルソーだからこそ、これだけの処置があったとも言える。回教徒であるアラブ人に対しては「デュー・プロセス・オブ・ロー」が尊重されたかもわからない。即、豚箱行きだったと推測できる。そもそも理解しあえない、ところから出発する宗教とは何なのか。他者を他者として許容しない姿にムルソーは偽善を見てとったはずである。ここにカミュのコロニアリスムと宗教を鋭く問う姿勢が垣間見える。


 カミュのこの著作は(主題から逸れるが)近代司法を理解する上でも極めて好著のように思える。近代司法の二大原則であるところの「デュー・プロセス・オブ・ロー」と「罪刑法定主義」がここアルジェでは、まだ道半ばで確立されていない頃の話でもある。たとえば「デュー・プロセス・オブ・ロー」は、たとえ被告人に対する尋問があっても、弁護士がそこに同席していない限りその尋問に答える必要がないといった取り決めや、形式的ではあるが、被告人が被告人であることに相違ないことを誓う儀式などだ。だが、被告人ムルソーにとってはこのような制度もあまり用をなさなかったようではある。その点、この物語では「罪刑法定主義」が限りなく蹂躙 (じゅうりん) されていると見える。だから、母の葬儀で一粒の涙をも流さなかった事実の〝非道さ〟〝異常さ〟が、平気で、今回の事件と結びつくことにもなる。あるいは結び付けなければ、この無神論者をさばくことが出来ないと判断された。本来、このような検察の主張なぞ、近代司法においては「裁判長!検察の主張は本件とは全く関係のないものです」という一言で片付けられる問題でもある。
 しかし、かの時代においては母親の死を前にして涙を流さなかったという事実は、問答無用で社会的に抹殺されることに直結する。およそ理解の及ばぬ化外 (けがい) の民「異邦人」として扱われるのだ。逆に言えば、人間の屑と吐き捨てられるようなチンピラのレエモンでさえも、母親の死に嘆き悲しむことがたとえ演技であれ出来るならば、決して異邦人としては扱われないはずである。


 宗教を道徳に据えた社会ではいつだってこういうことは起きうる。無神論者のムルソーは、その意味では、善悪の知識の木の実を拒否した男である。善悪の知識の木は、旧約聖書で言うところの知恵の樹である。零れ落ちる禁断の果実を食したからこそ神々に等しき善悪の知を身につけた存在が、いわばムルソーを取り巻く人間たち、信仰心の篤い (あつい) 者たちである。アダムとイヴの末裔である。
 仮に信仰心の篤い者たちが、自身で善悪を判断出来るのだとすれば、私の行動の一切の是非を彼らに預けてもいいのではないか。ムルソーが過剰なまでに非主体的である性格はこれとも関係していやしまいか。
 いわば、ホンネとタテマエの関係性だといえる。ホンネとタテマエでもこの物語は読み解けるかもしれないが、残念ながらそこまでは私の批評の力が及ばない。

 

 最後に。これは一種の謎解きでもあるが、彼はなぜ殺人を犯してしまったのか、という問いに対して「太陽が眩しかったから……」と答えたとされる。宣伝文句ほどには強調されなくても良いと思うし、初見の人にとってはこの文言を見逃す人も多いのではないか。本作が紹介されるとき、これがあまりにもリニアに、センセーショナルに説明されるものだから、本作を読む前から反感を覚えるのも仕方のないことだ。

 私はこのように考える。これはやはり寓意の言葉である。そも太陽に照らされ初めて物体は影をまとう。光と影、光と闇という二元的な世界がかたどられる。したがってそれは正邪曲直をかたどる。太陽はいわば神である。太陽(神)に照らされることのなかったムルソー。普通の信仰者であれば、この世に生を享けた瞬間に洗礼が施され、神の子として迎え入れられる。生まれたその時から太陽に照らされるのだ。しかし、ムルソーはそういった習慣とは隔絶された中で生きてきた。事実、母は生前を通して宗教心をなんら涵養 (かんよう) しなかった。その母の元に生まれたのがムルソーである。しかし、このような人は世の中にゴマンといるはずである。なぜなら、タテマエで涙を流してみせる人間たちを私は知っているし、信仰の心を持っていながら非人間的な行為に及ぶことに平気でいる人間がいることを私は知っている。ムルソーは証人として召喚されたトマ・ペレーズが語ったように、運が悪かったとしか言いようが無い。どうしたって人を殺めねばいけない状況に追い込まれていた。犯してしまった以上、それを正当化はできない。第一部のラストシーンにこうある。


「焼けつくような光に堪えかねて、私は一歩前に踏み出した。私はそれが馬鹿げたことだと知っていたし、一歩体をうつしたところで、太陽から逃れられないことも、わかっていた。それでも、一歩、ただひと足、私は前に踏み出した」
 ムルソーにとっては、あまりに「太陽(神)が眩しかった」のだ。ひとを殺してもなお救われると説く神の教えが眩しかった。一見、殺人者にように見えるムルソーはしかし、もっともひと一人の死を無下に扱わない人間だった。私はそのように結論する。(了)