自分の薬をつくる

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今まで見えないふりを決め込んできたあらゆる問題が、コロナ禍によって一挙にあぶり出されている。これまで減少傾向にあった自殺者がこのコロナ禍で増加に転じ、とりわけ女性の自死が際立って増えている。女性の自死が多い一つの要因は、男性に比べ非正規雇用という不安定な雇用形態で働く人が多いためだろう。こうして社会的な立場が弱い人々をさらに苦境に追い込んでいる。

自分自身もこのコロナ禍にあって躁 (そう) 病を発症してしまった一人だ。鬱病ほどに「死にたい」という気持ちに苛 (さいな) まれることはないが、日々のサイクルがうまく回らず、ずっと辛かった。そんな悩みを親友であるS一郎に吐露したところ、彼の同郷の先輩である坂口恭平さんの著書『自分の薬をつくる』を紹介された。帯には「誰にも言えない悩みは、みんなで話そう。坂口医院0円診察室、開院!」とある。躁鬱病と診断された経験を活かし、ワークショップに参加する悩みを抱える〝患者さん〟たちに効く最良の〝薬〟を処方するのだ。そもそも、坂口恭平さんはまったくの手弁当で、これも「0円」にこだわる彼独特の流儀だが、自身の電話番号 (090-8106-4666) を満天下に知らしめ、死にたくなったら俺のところに電話してこい!と自殺志願者のための「いのっちの電話」を開設している。

「いのっちの電話」ならぬ「いのちの電話」は英国由来のセーフティーネットだ。本国・英国では1953年に始まり、ここ日本でもドイツ人宣教師であるルツ・ヘットカンプさんが中心となり、1971年10月に東京で電話相談が開設され、今年で50年の節目を迎える。なお、彼によれば、「いのちの電話」を名乗って相談を始めたら、実際の「いのちの電話」から商標登録侵害で訴えると警告されたようで、そこから一文字変えたとのことである。何とも耳に入れたくないエピソードだ。目指す価値は両者も同じなはずなのに……。

若さゆえに死に魅入られて、死を前に前のめりになっている人や、孤独感に苛まれ続け、私の悩みは誰にも共有できないだろうと信じて疑わぬ人、病床にあり死が間近に迫っている人、今にも縄で首をくくろうと台座に足を掛けている人……。そんな方々と電話越しながらもサシで向き合うのは、きっと途轍 (とてつ) もなく心身をすり減らされるだろうと思う。正規のボランティアであっても、一年半に及ぶ研修を受けないと相談員になれないそうだ。そんな活動を10年間にわたって続けている彼はいったい何者なんだろう。S一郎が魅入られた人物である以上、一廉 (ひとかど) の人物に違いない。

実際に「いのっちの電話」に架けた人はいないだろうか、とブログを漁 (あさ) っていたところ、新潟にある喫茶店に勤務していたぱりんこさんという方のブログにたどり着いた。詳細は彼女のブログに譲るが、兎にも角にも彼女への処方箋として提示されたのは、「毎日文章を書くのを日課にして、仕事だと思って取り組もうよ」という一言だった。なぜそれが解決策になりうるのだろう。彼女が坂口恭平さんから受けた内容はこうだ。「今日は調子が悪いなぁと思ったら、書かない。それはよく分かるけど、波が出ちゃう。毎日ブログを書く。そうすることで感情がフラットな状態の文章が書けるよ。自分の感情の波も落ち着くよ。だから僕は毎日文章を書くっていうのをやっているんだけどね」

確かに極めて処方箋的である。私も薬を処方されたときに、医者や薬剤師から口酸っぱくこう言われる。「自己判断で服用を辞めてしまい、思わぬ副作用や悪影響が出ることもあります。絶対に自己判断で断薬しないでください」──。坂口恭平さんのこの言 (げん) に思わず膝を打った。なお、その後のぱりんこさん、今では趣味の喫茶店めぐりを軸にライターとして自活しているのだから驚きだ。

そして二重の意味で驚きなのが、坂口恭平さんが処方箋として提示した「日記を書くこと」が図らずも、私がなんとか躁状態をこじ開けようとしている一手として導き出した結論と一致していることである。確かにここ最近、薬を徐々に手放せている。やりがいのある日課となりそうだ。(了)

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赤いスイートピーは存在しない

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1970年代の国民的スーパーアイドル・山口百恵がわずか21歳で突如として引退を発表。1980年に開かれた日本武道館でのライブで「さよならの向う側」を披露し、マイクをそっとステージに置き舞台裏へと消え去った。

そのマイクをかっさらうかのように同年デビューしたのが松田聖子である。デビューから長く続けてきたヘアスタイルは一大ムーブメントとなり、多くの女子たちが〝聖子ちゃんカット〟を真似たのは往時を知らない世代でも知る逸話だろう。私の母もご多分に漏れず聖子ちゃんカットだったようだ。聖子ちゃんカットはしかし、1982年に発売された「赤いスイートピー」を期にその姿を消す。眉を覆うほどの重い前髪と外向きにブローされたサイドヘアーと突如訣別 (けつべつ) し、ファンを一様 (いちよう) に驚かせた。

さて、この「赤いスイートピー」だが、松田聖子の楽曲の中でもとりわけ好きな一曲である。当時33歳だった作詞家・松本隆と28歳だった呉田軽穂(松任谷由実)により生み出された名曲である。歌詞の創作秘話について松本隆はこう語っている。

「テーマはあくまでも恋愛における幻のようなものでして。この女の子が見ているスイートピーは幻視したもの、現実と幻想の間、境目みたいなものですね。恋愛をしているときってそうじゃないですか。勝手にいろんなものを付け足してピカピカ見える」

確かに松本隆の並べ立てた歌詞はどこか幻想を思わせた。というのも、歌詞の中に登場する煙草の匂いをまとうシャツを着ている彼は二十歳を超えた年齢だとすると、青春時代である1970年代の空気をめいっぱい吸い込んだ世代だ。1970年代は欧米の自由恋愛主義やフリーセックスが日本にも流れ着き、男女ともにむしろ貞操 (ていそう) 観念に崩れが生じはじめた頃で、男女の関係をプラトニックな恋愛に導くことはむしろ難しかったかもしれないという現実がある。一方で、プラトニックな関係を築くことがまだ幻想ともいえないほどには希望がある……。そんな現実と幻想の境目を確かに歌っているようで、女性の振れる心をしっかりと捉えていると思う。

実際、この楽曲を発表した途端に、これまでぶりっ子とされてきた聖子ちゃんに同性のファンも増えたというから納得だ。

そんな私が世代を超えてこの楽曲を愛するのは、当時付き合っていた女性が自分の中のプラトニックな部分をずっと引き出してくれていた存在だったからだ。

〝知り合った日から半年過ぎても〟〝手も握らない〟のが私であったし、私自身に対して〝あなたの生き方が好き〟と思ってくれるような存在として彼女に映ってほしいという願望もあり、付いてきて〝I will follow you〟ほしかったのは確かだ。

でも「あなた自身の存在が私のプラトニックな部分をさらけ出してくれている存在なんだ」ということは彼女には口にできなかった。やっぱり自分も男だから自分の中に二面性はある。どろどろと糜爛 (びらん) な抑えがたい欲望だってきっとあったけれど、なぜか彼女の前ではいつもプラトニックなところばかりがある意味で〝暴露〟されてしまうのである。

スイートピー花言葉は「門出 (かどで)」と「別離 (べつり)」。彼女とは実際の花言葉そのものような結末を迎えてしまったけれども……。

松本隆自身は題名であるスイートピーにどのような意味をもたせたのだろうか。手元にある『松本隆 風街図鑑 1969 - 1999』のライナーノーツを見ると「わざと純情な二人の話を書いた」と語っている。1982年に発表した「赤いスイートピー」で描かれたプラトニックな恋愛には今は後戻りさえできそうにない。その意味で時代の狭間 (はざま) を真空パックしたようなこの歌。ちなみに楽曲発表当時、スイートピーには赤い品種はまだ存在しなかった。今では〝存在しないもの〟を歌ったその心象風景に恐るべき詩性が宿っている。(了)

Seiko Matsuda sweet days

Seiko Matsuda sweet days

  • 松田 聖子
  • J-Pop
  • ¥4583

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絶望に慣れぬための「メメント・モリ」

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アルベール・カミュの小説『ペスト』が昨年来、新型コロナウイルスの猛威に晒 (さら) された国々で突如としてベストセラーになった。

不穏なネズミの大量死から招かれたペストが、次第に社会の隅々までをも覆い呑み込んでいく様を克明に描いており、コロナ禍の今、改めて読み返すと何もかもをも言い当てているようで総毛立 (そうけだ) つほどの作品である。

同時に、カミュはその作品の中で、あれほど病魔に翻弄 (ほんろう) されていた市民が、ペスト禍への感受性を次第に鈍らせていく姿もまたありありと描いた。引用しよう。

 

「市民たちは事の成り行きに甘んじて歩調を合わせ、世間の言葉を借りれば、みずから適応していったのであるが、それというのも、そのほかにはやりようがなかったからである。彼らはまだ当然のことながら、不幸と苦痛との態度をとっていたが、しかしその痛みはもう感じていなかった」

 

それを受けて、主人公である医師・リウーにこう言わせている。

 

「まさにそれが不幸というものであり、そして絶望に慣れることは、絶望そのものよりもさらに悪いのである」

 

やがては希望を抱こうとすることすら放棄してしまい、人々の心をも蝕 (むしば) んでいく様もまた描くのである。

今、コロナ禍にあって、絶望に慣れてしまうことに対して我々は必死に抗わなければならない。そのための方途を探しあぐねていたが、少しだけヒントになるような言葉があった。

「イタリアには〝迷ったら古典に帰れ〟という言葉がある」──。在伊40年余のジャーナリストでエッセイストである内田洋子さんが紹介している。イタリアではジュゼッペ・コンテ首相による非常事態宣言発動と軌を一 (いつ) にしてロックダウン(都市封鎖)はその全土に及んだ。そのロックダウンの渦中、内田洋子さんがイタリアに住む若者24人に呼びかけ、ロックダウン下における彼ら彼女らの日々の暮らしや心の機微をオンライン上で記すよう声を掛けた。毎日彼女の元に届くメッセージを邦訳しては、ウェブ連載として日本の読者に届け続けた。題名は、ボッカチオによる人類史上初の疫病文学『デカメロン』になぞらえて『デカメロン2020』。

ボッカチオによる『デカメロン』は女性七人と男性三人の若者が、ペストが蔓延する都市から離れ、郊外にある別荘に籠 (こも) り、1日に1人ずつ10の物語を話して10日間語り合うというリレー小説である。それぞれの物語には性、愛、富、嫉妬、復讐をめぐる内容が含まれており、そのどれもが活気に満ち溢れている小咄 (こばなし) である。

ペストが猖獗 (しょうけつ) を極め、都市では死臭が満ち、老いも若きもペストに罹患 (りかん) すれば容赦なく見捨てられる──。まるで倫理が逆さ立ちしたような世の中でなお、なぜ若者らはこのような小咄に花を咲かせているのだろうか。そう思われる向きもあろうが、永劫 (えいごう) 的な愛を捧ぐことも捧げられることも叶わぬ時勢の中で、痴話 (ちわ)、不倫、貫通といった刹那 (せつな) 的な快楽が描かれていることにこそ注目したい。むしろその背後から読み取るべきは「メメント・モリ (死を想え)」なのである。

死を想うことこそが、かえって自らの生の輝きに通ずることだってあると思う。死に至る病ならぬ〝絶望に慣れる病〟から抜け出す一つの方途かもしれない。(了)

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断ち切れない料亭政治

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かつて料亭政治という言葉があった。議員宿舎にほど近い港区・赤坂などには料亭街と呼ばれる一角があるが、文字通り料亭で行われる政治家同士の密会である。国会の審議を通さず、誰にも知られることなく秘密裡に政治的決着がつく──。そんな密室政治を揶揄 (やゆ) してこう言われた。与野党の責任者が相手の顔を立てつつ、落とし所を相談することもあり、ときには強行採決や審議拒否さえも秘密裡に決められていたという。

ここでいう与野党の責任者とは、議院運営委員会理事であったり、国会対策委員会委員長、あるいは幹事長クラスの人物。与党内では、野党と話をつけられるのが有能な政治家と言われ、俗に言う〝国対族〟を生む要因の一つともなった。

1993年に誕生した非自民連立政権が担ぎ出した細川護熙 (もりひろ) 氏は当時、55年体制の終焉 (しゅうえん) に楔 (くさび) を打ち込まんとして、この料亭政治を廃する宣言を行った。だが結局のところ、料亭政治はホテルのレストランでの会食や会員制バーに場所を変えただけに留まった。

料亭政治、ホテル会食はそれでもまだ品があるような気もする。そんな中に飛び込んできたこのニュース。会食どころかついにはキャバクラや銀座クラブで遊び呆 (ほう) ける議員まで飛び出した。公明党の幹事長代理・遠山清彦氏、自民党国会対策委員長代理・松本純氏の辞任・離党ドミノの騒ぎである。やはりというべきか、両名ともかつて料亭政治において責任者とされた役職に当たっている。

コロナ禍にあって、本来は国民に移動の自由の制限をお願いする建前上、行動で範を垂れるべき政治家らの綻 (ほころ) びがここまで酷いとは。とはいえ、人の振り見て我が振り直せ、である。

ところで、話はややそれる。銀座クラブには手元不如意 (ふにょい) のためとんと行ったことはないが、キャバクラには何度か通ったことがある。何度か通い詰め思ったのは、水商売に携わる彼女らの教養の無さや話術の低さである。その教養の無さに愕然とした覚えがあり、それからしばらくは訪れていない。銀座クラブのママなどは「キャバクラなどしょんべん臭い小娘と一緒にするな」と憤 (いきどお) るかもしれないが、悪いが似たようなものだと思う。

今でもそういった店則 (てんそく) があるかは知らないが、銀座クラブに所属するホステスは、週一日は同伴出勤がノルマになっていたりするという。ノルマをクリアできなければ、場合によって、取り分にペナルティさえあるというが、ある程度の社会的ステータスを持つ男からすれば、そのホステスに教養さえあれば自然と惹き付けられると思うのだが、どうだろうか。

水商売の代表格たる花魁 (おいらん) に付く太客 (ふときゃく) といえば、武士、豪商、文化人だった。彼らの相手をする以上、教養も当然必要であり、幼少 (禿:かむろ) の頃から徹底的に教養や芸事 (げいごと) を叩き込まれる。古典、書道、茶道、和歌、箏 (そう)、三味線、囲碁……。現代でも松本清張が描く『黒革の手帖』の銀座クラブのホステス・原口元子などは教養溢れる人物の筆頭だ。私の中ではあの原口元子こそ教養溢れる水商売の女なのだ。あの頃のキャバクラなら通いたかった、と思う。

でっぷりとした腹まわりの、デリカシーに欠けた下卑 (げび) た笑いをするガハハなオヤジであれば、ただ自分の話を愛想笑いで聴いてくれるだけでも満足だろう。俗にいう接客の「さしすせそ」である。しかし、こちとらそんなものは求めていないのである。おっぱいだけで心が動かされるほど下半身で生きてはいないのである。

松本純氏もこの期 (ご) に及んで「閉店後のクラブで陳情伺いをしていた」と言うが、仮に本当だとすれば、今も密室政治がこうして幅を利かせている証拠であろう。銀座クラブのママもこういう政治的な嗅覚が鋭いところだけは、夜の街に生きる女・原口元子然としている。(了)

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望郷の念とともに帰ってきた田中将大投手

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小さな頃からプロ野球の熱烈なファンだった。セ・パ両リーグのプロ野球選手名鑑を穴があくほど兄弟で読み、ゲーム「実況パワフルプロ野球」は開幕に合わせてペナントモードに突入。弟にいたってはリアルさを追求しようと、あえて自分でプレイせず、コンピューター対戦で両者を競わせる別のペナントモードも作成。実際の勝敗やスラッガーのホームラン数とを見比べるのもまた一興だった。兄弟でそれぞれセパ両リーグの好きなチームを等分に分けたこともあった。

兄・巨人/広島/横浜/ホークス/西武/バファローズ

弟・阪神/ヤクルト/中日/日本ハム/オリックス/ロッテ

こんな感じだったと思う(なお、後日、記憶力がすこぶる良い弟に訊いてしっかりと確認済み)。当時、万年最下位と言われた阪神やロッテを弟に押し付けていたことに少し反省。個人的にはあの時代こそがプロ野球の黄金期だったと思う。王貞治長嶋茂雄といった往年の名選手が監督やコーチとして陣頭指揮を執り、イチロー松井秀喜らのスター選手たちがしのぎを削り、野茂英雄らが大リーグで活躍するニュースに日本の野球ここにあり!と小躍りしたものだ。

それでも、兄弟で夢中になっていた頃はまだ楽天イーグルスは球団として存在していなかった。

特報だ。米大リーグで活躍した田中将大投手が八年ぶりに古巣・楽天イーグルスに復帰する。東日本大震災福島原発事故から十年の節目となる今季、東北にとっては盆と正月が一緒に来たような喜ばしいニュース。

新型コロナウイルスの影響で大幅な収入減となっていた大リーグの各球団。資金難から軒並み緊縮財政を余儀なくされた。結果、その去就 (きょしゅう) が注目された巨人・菅野智之投手の大リーグ入りも見送りとなり、移籍市場はかつてなく冷え込んだ。折しも、田中将大投手もまた、ヤンキースからフリーエージェントになっていたこともあり、所属チームが未定のままだったが、石井一久監督の熱烈なラブコールもあり入団が決まったようだ。

名門ヤンキースでメジャーデビューから六年連続の二桁勝利をかざり、通算78勝をあげた怪腕。伝家の宝刀であるスプリットフィンガー・ファストボール (SFF) でまた三振の山を築き上げてほしい。

楽天イーグルスの黎明期 (れいめいき) を支えた野村克也監督が昨年他界した。野村克也監督の元で野球人生をスタートさせた石井一久監督と田中将大投手。帰ってきた日本の球界で、辣腕 (らつわん) をふるう姿を泉下 (せんか) で見てもらえるような、そんな活躍をしてほしい。「マー君、神の子、不思議な子」。ボヤキのあの声で聞きたい。(了)

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