古内一絵『快晴フライング』

きょうのことば

 蝉 (せみ) は長い間を地中で過ごし、ようやく青空の下に出てきたら、わずか一週間程度で死んでしまう。だからこれは命の歌だ、絶唱だ。
 だけどやっと外に出て「さあ歌うぞ」と蛹 (さなぎ) を破ってみたら、蝶の羽が出てきた。そうしたら蝉はどうするだろう。蝶の羽では歌えない。いくら他人が綺麗だと誉めそやしたって、蝉にとって歌えない羽は意味がない。
 そんな蝉は、一体どうすればいいのだろう──。〈雪村襟香〉

──古内一絵『快晴フライング』より

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 古内一絵『快晴フライング』を読みました。本作についての批評です。

 長文ゆえ、前置きもなく入ることをお許し願いたい。 
 物語の主人公は、水泳部切ってのエース・上野龍一。孤高の一匹狼的存在である。冒頭、龍一は水泳が好きな理由をこう語っている。

 

 そもそも自分が水泳を好きなのは、それが己の実力一個で勝負ができる、個人競技であるからだ。できない連中に脚を引っぱられて無駄に苛々する必要もないし、第一水の中では他人と口をきくこともない。水に入ったら、他人のことなど関係ない。相手にするのは自分だけだ。

 

 龍一にとって大事なのは、タイム。いかにコースを速く泳ぎ切り、結果を出すか。とはいえ自己研鑚にばかりかまけていられるのも、ひとえに月島タケルの縁の下の働きが大きかったのは言うまでもない。

 そんな彼の水泳との向き合い方に終わりを告げるように、予鈴が鳴らされる。それも顧問の口から鈍い鈍い音で。
「上野。水泳部、降格させるからな」──。
 水泳部降格騒ぎは、全てを一変させた。この部を率いてきた主将・月島タケルが不慮の事故で亡くなり、月島を慕っていた部員たちは次々と退部届を提出。折悪しく、チームを率いてきた幼馴染の三人衆のうち、龍一と女子部員のエース・岩崎敦子は三年生となり、今冬にも受験を控える身。当の水泳部顧問・柳田義人にとっても部の降格はおいしい話でもあった。元々この中学はこの地域でもっとも古い。校舎にいたっては木造である。ゆえにプールの設備がないので、練習といえば他校のプールを間借りする。そうして部としての体をぎりぎり繕っている。愛好会に降格すれば、そんな面倒で煩雑 (はんざつ) な事務手続きに追われなくても済む。もっとも、そんな雑事も全て、前主将の月島に任せていたのだが……。
 とはいえ、龍一も引き下がらない。水泳部は俺の居場所であり、中学最後の都大会には何としてでも歩を進めたい。そのために、曲がりなりにも部として存続していないといけないのだ。ゆえに、部の降格は断固として認められない。部の降格に向けて前のめりの顧問との正面切ったやり取りを交わす内に、勢い込んでこの部を立て直すと宣言してしまう。

「リレーで弓が丘杯に出場しトロフィーを持ち帰る──。」

 部の存続を懸けて大見得を切った龍一。けれども残っている部員は戦力外メンバーばかり。大黒柱の月島タケルを失った友たちの成長譚がここに描かれる。


 残った部員たちは然 (さ) しものかといえば、期待外れ。皆、余計者ばかりである。お調子者のチビ・三浦有人に重量系のおデブちゃん・五十嵐弘樹。我が道を行くトロそうな女子・東山麗美。推して知るべし。水泳の実力も惨憺 (さんたん) たるものだった。こんな部員たち、自分が主将でなければ相手もしない面々だったのに……。龍一の前途に暗雲が立ち込める。
 部を立て直すにしても、まずは戦力補強から。新入生勧誘に奔走 (ほんそう) する部員たち。少しは集められたものの、入部動機もいまいち定かではない一年生二人。話は若干前後するが、ケニアから来た留学生、マトマイニ・ワイリムという黒人の少年も後に入部してくる。そんななか朗報が飛び込む。曰く、日曜早朝の市営プールにだけ出没する凄腕スイマーがいるとのこと。誂向き (あつらえむき) にも、この中学の生徒らしい。あわよくば部員勧誘を、との想いを胸に秘めつつ市営プールに急ぐ。そこで部員たちは〝人魚〟を目にする……。孤高の美少女、雪村襟香の姿だった。

 物語の導入部分はざっとこのようなかたちだ。
 思えば、市営プールで相見えた龍一と襟香が、水中で交わしたコンタクトがすべての始まりのように思える。龍一が変わるきっかけだ。冒頭に語った「水泳が好きな理由」を思い出して欲しい。それまでの龍一は〝水中では他人と口をきくこともない〟と言って憚 (はばか) らなかった彼が、ここで変ったのだ。襟香が泳ぐ完泳コースに並び立ち、相手の実力を確かめるように並走すると、その瞬間、この勝負に向こうが乗ってきた。スポーツであれ喧嘩であれ、差しの勝負を通じて心の交流がはかられることを、俗に〝拳で語り合う〟などと表現をするが、この場面はまさにそれに似つかわしい。
 この瞬間、龍一は後戻りできなくなったように思う。自分が主将として振る舞うことに踏ん切りがついたのだ。

 両者とも勝負に胸は弾んだがしかし、入部はすげなく断られてしまう。襟香のスカウトが失敗に終わった今、龍一にできることは何か──。

 

 『有名中学から難関大学まで、現役合格保証!』という垂れ幕が掲げられている巨大予備校の前──。今いる部員たちを短期間で選抜に育成するなど無謀にもほどがある。間近に控えた弓が丘杯。かつての部員・春日に応援を頼めないか。そこでこの予備校に足を運んだわけだ。けれども春日は龍一を前にしてこう言い放つ。

「こんな地域の公立でのほほんと過ごして、大学受験になってから慌てて連中と張り合おうったって、もう遅いんだよ。これからの『格差社会』を生き抜こうと思ったら、そんな呑気なことはやってらんねえ。俺は大事な夏に、部活で遊んでるような暇はないんだよ。〔中略〕今日び『負け組』になりたくないと思ったら、これぐらいは当然なんだって。この先、『格差』の二分化は、益々激しくなるんだぜ」

 ぐうの音も出ない意見に圧倒され、帰途に就こうとする龍一。後ろ髪を引かれる思いではあったが、予備校を後にすると、行きがけ目にした面妖 (めんよう) な店『ダンスファッション専門店・シャール』の前に一人佇 (たたず) む襟香の影を見る。そこで襟香の正体を初めて知ることとなる。彼女が性同一性障害 (GID : Gender Identity Disorder) に苦しんでいることを……。
 雪村襟香の正体はしかし、察しの良い読者であればただちに何者であるかに気づいていたはずだ。今日びの小説で、単なる謎解きのために〈性同一性障害〉の登場人物を持ち出すなんてことは無芸にも等しいし、酷い場合、誤った理解さえ招きかねないが、本書はそうした作りでは全く無い。誠実に向き合っている。それが素晴らしい。物語を通して〈性同一性障害〉を理解する上で付き物の、難解な言葉は一切登場しない。けれども彼ら特有の悩み・人情の機微に深く分け入り、トランスジェンダートランスセクシャルの違い、オカマとドラァグクイーンの違いへの理解を深めようとしている。特に襟香が膝を抱いて一人、今の自分の心境を〝セミ〟にたとえて独白するシーンには膝を打つ。〈きょうのことば〉はこの独白から。文学の可能性を感じさせてくれる好著だ。
 この障碍に概して理解を示さないのは大人である教員や身内だったりする。当の部員たちは、襟香が男になりたがっていることを、勘違いのうちに受け容れてしまう。形容矛盾のようであるが、「勘違いがピタリと噛みあう」といった感なのだ。この面白さにはぜひ浸ってほしい。また、襟香の悩みを初めて打ち明けられた当の龍一は、それまで〈性同一性障害〉という言葉すら知らなかった。けれども、その〝気づき〟は中学生らしい衒い (てらい) のないもので共感が持てる。引用しよう。

 それは自分が毎日女の制服を着せられて、表を歩かされるようなものなのだろうか。
 そこまで考えて、龍一は愕然とした。
 冗談じゃない。そんなの、絶対我慢できない!

 

 その世代の男子だったら、嘲笑の的にして終わるよりほかないが、彼は自分に引きつけて考えた。そして義憤を覚えたのである。
 ドラァグクイーンの説得も奏功し、こうして念願の襟香の入部も叶い、新生水泳部の主将としての一歩を歩み出す龍一であったが、一筋縄ではいかないのがこの物語の面白いところである。

 さて、あまり物語の核に入り過ぎると興をそぐので、これ以上すじには立ち入らないが、この物語の白眉 (はくび) を二三、紹介したい。

 その一。この物語では「予備校」を、格差社会といった歪 (いびつ) な社会構造を賢く生き抜く人間たち、あるいはそれに対して反抗を試みない消極的な肯定者を生み出すだけの製造マシーンとして象徴的に描いている。痛快なのは、その校舎の真正面にドラァグクイーンの彼女が経営する『ダンスファッション専門店』がでんと店を構えていることだ。ありていの小説なら、あるいは現実を鈍ら (なまくら) に書き写す書き手なら、これを日陰者として路地裏に店構えさせるところだろうが、筆者はそこにこそ未来を託していると言えよう。日陰者のうちに生きてはならない、社会に私たちの存在を認めさせることを諒 (りょう) とさせる気概を持て。少年少女たちよ、当世の価値観に染め上げられることなく、オルタナティブな生き方に身を預けよ!という声が谺 (こだま) する。この〝気づき〟を得るシーンは物語終盤にもまた用意されている。龍一が競泳で使われる「自由形」というもはや形骸化した言い方(つまり、形式的にはフリースタイルとされながら、実際はクロール以外の泳ぎを見せる者がいないこと)に思いを巡らすシーンだ。

 その二。ドラァグクイーンが経営する『ダンスファッション専門店』は俗世的な価値観から抜け出てしまった雪村襟香らの、いわば〝アジール (俗世間の規範とは無縁の場所)〟として機能している。アジールはまた他にも用意されているといえる。ここに集う水泳部員たちは一癖も二癖もある者ばかり。入部したきっかけに影がある者、過剰に気丈に振る舞う部員の真意、自身の生い立ちを負い目に感じている者にとって、水泳をすること、水中に身を沈ませること自体が一つのアジールとして機能している。それを湿っぽく著 (あらわ) さず、実に軽やかな筆運びで描いてみせている。
 つまり、水の中では「他人と口をきくこともない」「重力から解放される」「体が軽くなる」……。各々が水の中に居場所を感じているのだ。水の中は確かに心地よい。けれども同時に、ある面も持ち合わせていることを忘れてはならない。そう、水中には空気の800倍以上の抵抗があるのだ。単なる水泳部の青春小説ではないのがおわかりいただけだと思う。極めて寓意的 (ぐういてき) な小説である。

 その三。物語のラスト、弓が丘杯当日の描写は感動必至だ。誰にでも公平に優しかった前主将・月島タケルの魂が筆者に乗り移ったがごとく、部員たちにはあまねく見せ場が用意される。あの重量系で泳ぎもままならぬ水中歩行部員・五十嵐くんにもその見せ場が訪れた時は感無量だった。

 エピローグは『夏のエール』という表題で特別に設けられている。この別立ての意図するところはよくわからないが、龍一、敦子にとってのもう一人のかけがえなき相棒にして今は亡き月島タケルを、敦子の回想から再度描く。
 誰に対しても平等に優しい。決して誰かを置き去りにはしないタケル。この社会を生き切るにはあまりにも優しい。優しすぎる。しかし、神は無慈悲である。あるいはタケルが神に近づきすぎたのであろうか。タケルを取り巻く人々に試練を与えるかのごとく、穢れ無き命は神のみもとへと投げ出される。
 善い奴はみんな死ぬ──。どうしてだろうか。

 本書は児童文学の先駆者、ポプラ社より刊行。そしてポプラ社が特設する小説大賞特別賞受賞作である。青春小説としてもすぐれているし、何よりも性同一性障害を抱える人々の存在に思いを致すに絶好の書である。読書感想文の題材として好個の書であり、同世代の中学生は必ず手にとって欲しい本だ。(了)