ローレン・オリヴァー『デリリウム 17』

きょうのことば

 あらゆるものが美しく見えた。『沈黙の書』には、デリリアは知覚をおかしくし、論理的に考える力を失わせ、正常な判断を下す能力を奪うと書いてあった。でも、書いてないこともあった。
 愛は世界を実際よりもすばらしいものに変えるって。熱気でかすむゴミ捨て場すら、鉄くずの山や溶けかかったプラスティックや悪臭を放つものですら、異界が地上に現れたかのような、ふしぎな奇跡みたいに思えた。〔中略〕見るもの触れるものすべてが、彼につながり、見るもの触れるものすべてが、完璧に思えた。

──ローレン・オリヴァー『デリリウム 17』より

  ローレン・オリヴァー『デリリウム 17』(訳・三辺律子)を読みました。本作についての批評です。

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 「愛するなんてことを知らなければよかった」

 別離であれ、片恋であれ、悲恋に打ち砕かれれば、取り巻く風景の何もかもが輝きを失い、陰影をなくす。ならばいっそと身も世もなく「そも愛するなんぞくそくらえ」と捨て鉢気分で憂き身をやつす……。
「失うくらいなら愛さなければ良かった」。このような感慨を抱いた経験はお持ちではないか。そうだとすれば、それは一時だけにして、考えを改めた方が良いかもしれない。今回紹介する物語はその怨嗟 (えんさ) の延長線上にある世界。極めて特異な世界観である。「愛」が欠落した世界を描くディストピア小説。

 

 主人公レナ・ハロウェイは18歳の誕生日を目前に控える女子高生。18歳になると男女の別なく、概ね手術を受けねばならないとされる。アモル・デリリア・ネルウォサ──。つまり愛による神経性譫妄 (せんもう) 症を治すためにだ。「愛」という感情を持たぬよう、18歳を迎えると同時に、意図的にメスを入れるのだ。ロボトミー手術みたいなものだ。いや「Luvotomy」とでも命名しても良さそうだ。
 昔はこうではなかった。アモル・デリリア・ネルウォサが発見される遥か以前の人々にとって、「愛」という感情は「病」であるという自覚はなかった。不安神経症、うつ病、躁病、不眠症双極性障害に罹患 (りかん) することは偶発的なもので、「愛」との間には何の関係性がないものだと思われていた。今、我々が生きる世界だと読み替えてもらっても構わない。
 物語において、愛が危険な理由をこのように記されている。


〈愛は精神に作用するため、ものが明確に考えられなくなり、幸福な生活のための合理的判断ができなくなる〉

 序盤からやにわに浮かび上がる疑問。それは、なぜ政府はアモル・デリリア・ネルウォサに感染することを『あらゆる危険の中でもっとも危険なもの』として教育しているのか、ということである。それも『沈黙の書』なる黙示録的なテクストまで拵 (こしら) える周到さだ。ヨハネ、マタイ、ペテロなどかつて聖書とされたテクストは、全て〈愛を知ったがために〉罪人となり、破滅したという寓喩的解釈がなされているという念の入れよう。章の始まりに挿入される寸鉄 (すんてつ) は、主としてこの〈聖書〉から引用されている。
 この政策は確かに一定の成果を成し得た。犯罪は急激に減り、離婚率も飛躍的に下がり、ドメスティック・バイオレンスも絶え、個人間の争いは消え、その延長線上にある国家間の争いも消え、〈ユートピア〉が実現されたかのよう。それでも謎は解けない。

 では、結婚はどうだろうか。どちらかといえばお見合いを通じた結婚に近い。18歳になった男女は前述の手術を受け、評価官に査定され、初めて結婚を許される。評価官は数時間の面接中に、受験者の次のような資質を見抜く。〈愛〉に魅入られていないか、あるいは愛の善美を高らかに謳いあげる反政府組織〈不法民 -インバリッド-〉のシンパではないかをチェックするのだ。その〈評価〉に合格した者だけが結婚にたどり着く。しかし、自由恋愛による結婚はここではもってのほかである。男女はパートナーを政府にあてがわれ、そこで結婚することとなっているのだ。

 物語の設定上明らかだが、男女の情交はおよそ結ばれぬ世界であり、したがって主人公のようにうら若き17歳の女の子であっても男の子と会話をした経験はほんの数えるほど。あけすけにいえば、処女である。ゆえに、心理描写も読んでいるこちらの方が顔を赤らめるほどに初々しい。著者・ローレン・オリヴァー氏は、風景に寄せて内面を描写する力に長けた作家である。確かに物語の世界観は管理社会のそれではあるが、そこには感情を失ったかのような死んだ魚のような目をした登場人物たちは意外にも登場しない。そこもまた本作の見所であり、人間のちょっとやそっとでは擦り切れない感情が暗喩されているとも思える。


 ここで改めて思い起こしたい。政府は愛を抱くことの障害をこのように謳っていた。〈愛は精神に作用するため、ものが明確に考えられなくなり、幸福な生活のための合理的判断ができなくなる〉
 恋愛感情を抱くということは、この文言に嘘偽りがないことを図らずも自分自身の手によってオーソライズしてしまうことにつながる。──ものが明確に考えられなくなり、合理的判断ができなくなる。後に恋人となるアレックス・ウォーレンと再び相見えたその夜の夕餉 (ゆうげ)、彼女はどれだけ失態をおかしたことか数えきれぬほどだ。しかし同時にレナは、政府が意図的に言い落している事実があることにも気づく。愛の効用だ。〈きょうのことば〉はそのレナの気づきから。
 ふつふつと湧き上がる恋愛感情に心かき乱されるレナの描写は素晴らしい。世の中に恋愛小説は数あれど、ここまで微に入り細を穿 (うが) つかのごとく書き込まれることは稀ではないか。読者はそれを、時には懐かしむように、時には確かめるように、時にはなぞるように、大事に大事に読んで欲しい。


「あと18日……」
 手術を間近に控えた彼女は、アレックスに手を取られ、深い森へと誘われた。〈不法民 -インバリッド-〉が住むとされる集落へ。アレックスの本当の故郷を訪れたのだ。そこでいくつもの真実をその双眸 (そうぼう) で目のあたりにする。歴史で習ったはずの〈事実〉が邪魔をして事態をうまく呑み込めない。けれどもそこには確かに何かが息衝いている。かつて〈大爆撃〉で不法民たちは根絶やしにされたと教わった。ペンペン草も生えぬその地のはずなのに風景が、人間が、文明が息衝いている。感動的に思えたのは、〈大爆撃〉という事実はもちろん全てを根絶やしにしたわけではなかったが、同時に空に対する恐怖をも〈不法民 -インバリッド-〉らに抱かなせなかったことだ。事実、アレックスは自身のお気に入りの場所であるオープンカー・ハウスに連れて行くのだが、そこから見る空を紹介し、レナに格別の感慨を与えた。夏目漱石が「I love you.」の訳語に「月が綺麗ですね……」という一文を与えたという有名な逸話があるが、恋だの愛だのを語る時に空はやはり、分かち難き存在なのだろう。〈大爆撃〉で煮え湯を飲まされ、苦々しく思えた空。それでも「罪はない」なんて思えてしまうのだから……。


 残念ながら物語はこの一巻では完結しないようだ。三部作の第一作という位置づけであるらしい。邦訳はこの一巻のみ。原書が出版されるアメリカではハイティーンたちに絶大な人気であるという。日本でも少女漫画が好きであれば文句無しに勧めたい。あちらでは近々にテレビドラマ化もされる予定だそうだ。
 無感動に覆われた日常にぽっかりと風穴を開けるかのような感動的な物語である。まだ瑞々 (みずみず) しかった頃の詩への感応力を再び揺り起こすかのごとき、心肺蘇生にも似た感覚。自分の中の寝た子を起こすような感覚。かさぶたを剥がしにかかるあの快楽と苦痛の綯い交ぜ (ないまぜ) の感覚。言うなれば、再生。そんな印象をこの物語に持った。SFならではの設定であるからこそ成し得る妙技である。
 本を読み終えて、数多くの名シーンを思い起こすことができるが、一つ挙げるとするならばこれだ。レナが初めて不法民の棲まう地を訪れ、オープンカー・ハウスで愛についての詩集を初めて手に取る。そしてまったき暗闇の中で、蕩々 (とうとう) と朗読される詩に魅入られ、愛について朧 (おぼろ) ながらに理解していく。このシーンに触れた誰もが、エリザベス・バレット・ブラウニングの詩集を手にして読みたくなるだろうと思う。
 ロバート・インディアナの有名な彫刻作品「LOVE」(新宿アイランドのシンボルでお馴染み)がアンシャン・レジームの象徴となるような社会だけはゴメンだ。道徳観につけいるような政府を許してはならないことを教えてくれる。頑として抵抗を試みるべきだ。