コナン・ドイル『緋色の研究』

きょうのことば

 人生という無色の糸桛 (いとかせ) には、殺人という真っ赤な糸がまざって巻き込まれている。それを解きほぐして分離し、端から端まで一インチ刻みに明るみへさらけ出してみせるのが、僕らの任務なんだ。〈シャーロック・ホームズ

──コナン・ドイル『緋色の研究』より

 コナン・ドイル『緋色の研究』(訳・延原謙)を読みました。本作についての批評です。

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 コナン・ドイルの探偵小説〈シャーロック・ホームズ〉、第一作目である。
 アフガン戦争 (1878 - 1881) 帰りの元軍医・ワトスンの回想から物語は始まり、奇妙奇天烈なキャラクター、シャーロック・ホームズが紹介され、ここベーカー街に名コンビを予感させる二人が相まみえる。邂逅 (かいこう) も束の間、疾風怒濤のごとく怪事件に巻き込まれていく二人。ロンドンを舞台に繰り広げられる息をつかせぬ推理劇には、大いに魅了された。

 読者は本事件の謎解きにハラハラすること請け合いだろうが、同時に、ホームズ自身に関する謎解きにも挑むことになると思う。読者に潜む好奇心がそうさせずにはいられないのだ。つまりこういうことである。物語はひょんなことから二人の共同生活が始まるといった描写から描かれる。まもなくワトスンはホームズと会話を重ねるうちに、奇妙なことに気づく。ホームズの類稀なる知識欲である。それもある方面だけに突出した該博なる知識。傾ける情熱は常人のそれを遥かに超越している。恍惚 (こうこつ) 。薬物をキメているかのようだとも書かれる始末だ。一方で、取るに足らぬ知識はその場で捨てる。19世紀にはありふれた社交界を舞台にした小説では、決して描かれぬ造形だろう。そんなホームズの態度を訝 (いぶか) り、丁寧にもワトスンは一覧表にまで纏 (まと) めている。文学の知識──ゼロ。哲学の知識──ゼロ。政治上の知識──微量。科学の知識──深遠。凶悪犯罪史──該博、といった具合に。
 読者はホームズの、この偏った知識欲に何を見出すだろうか。職業人として真っ当な所作だと見る向きもあるだろう。しかし、ただただ探偵としての本分を全うするためだけの所作にしては奇っ怪にも思える。探偵というまっとうな人間が決して就くことはない、いわば〝逆さ眼鏡〟で世界をどう見ようとしているのか。ドイルは、その非合理さを次のように説明してくれている気がする。ドイルは、いみじくも『人類が真に研究すべき問題は人間なり』とワトスンにのたまわせたが、まさに〝緋色 (殺人) の研究〟こそが人間を探求する最上の手段と心得ているのがホームズなのである、と。

 巻 (かん) を措 (お) く能 (あた) わず。ホームズの鮮やかなる推理が披露され、ページを半分ほど繰ったところで真犯人はお縄に掛かり、物語は完結したかに思える。しかし、一転して第二部は国産 (くにう) み神話さながらの、壮大な光景から物語は始まる。犯人の殺意はなぜこうも熟してしまったのか。人生を復讐のために生き抜く男の一代記が物語られる。

 ホームズの超人的な論理的思考を以ても、〝犯人を暴いた〟に留まったかのように錯覚させる第二部の復讐一代記。人間の狂気はホームズの分析的思考をも謀 (たばか) るかのよう。少なくとも私は、読後そのような印象を持った。ホームズ自身は決して認めないだろうし、事実、結末の章では私の抱く感想に大いに反論しているようにも思える。ここには賛否あるだろう。

 探偵小説は、必ずしもこれが初めてではないが、たちどころに事件を解決する手腕を有する探偵は、もはや愛された造形だ。
 宮仕 (みやづか) え先の警視庁の刑事がなんとも憎めない人間臭い存在だったり、探偵道具の登場や、脇を固めるホームズ子飼いの浮浪少年、もとい情報屋もそう。事件解決の後、ホームズ自身の名声・喝采を奪われるのもまた心憎い演出であり、まさに極上のエンタテイメントだ。物語はホラティウスの風刺詩を引用して次のように締めくくる。──世間の奴らは我を非難する。だが私はわが家に秘した多くの財宝を眺めつつ自らを讃えよう。「財宝」が何を意味するか、読者諸氏はピンとくるだろう。この言をホームズにではなく、ワトスンに引用をさせているのがなんとも印象深い。ここに名コンビ誕生せり。

 推理のさなか、ホームズは時に地面に腹ばいになってでも事件を解決せんと凸レンズを覗き込む姿を垣間見せる。ワトスンをして「よく訓練された純血のフォックスハウンド」を思い起こさせるほどだ。これは私にとって意外だった。どんな探偵小説も、名探偵らはどこかスマートに過ぎ、鼻につくきらいがあるからだ。探偵を取り巻く、うだつのあがらぬ刑事たちの泥臭さや足で捜査し地取りする姿が好対照なところがウケていたのだろうが、粗野やガサツさ、泥臭さはべつに刑事たちだけに付き物の性格でもないだろう。この造形はもっと数多の探偵にも採用されてもいいのかな、と思えた。なにせ「インターネット上で何でも済ませられる」なぁんて勘違いしている時代に読まれる書物なのだから。

 本作を読めば、ホームズが直々に教え諭す探偵の心得は、読者の心をとらえて離さないだろう。もっとも凡夫たる私などは、ホームズのような人物に射抜かれてはたまらん、ということで善良に生きようと決意するぐらいなのだが。