小島秀夫が紡ぐ黙示録「デス・ストランディング」

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ゲームクリエイター小島秀夫氏による完全新作「デス・ストランディング」を遅ればせながらプレイしている。

本作は、未曾有 (みぞう) の現象によって荒廃した北米大陸が舞台。人々は、触れたものの時間を急速に進めるという特性を持った〝時雨 (ときう)〟による被害を恐れ、各々が地下シェルター内での生活を余儀なくされている。また、都市同士や人と人との繋がりが完全に分断されてしまい皆が孤独に苛 (さいな) まれている。そんな中、運び屋稼業を生業 (なりわい) とする主人公・サム・ポーター・ブリッジズが、荷物を人々に届けることで、図らずも人々の希望になっていく。

はじめてまだ日は経っていない。物語はまだまだ序盤だが、プレイヤーに課せられるのは三つの使命である。

 

1. 北米大陸の各地に点在する都市や拠点に荷物を届けること

2. カイラル通信をつなぎ分断された大陸を繋ぎ直すこと

3. エッジ・ノットシティに閉じ込められたアメリの救出

 

カイラル通信やエッジ・ノットシティとはなんぞや、については割愛 (かつあい) するが、こう記すと「世界を救う」という大仰 (おおぎょう) な目的のために動く主人公を想起させるが、サムは再び世界が繋がるということに対して嫌悪感を持っており、元来が運び屋稼業であるので、「世界を救う」などは、荷物を運ぶ傍らの〝ついで〟と言い募ってはばからない。そこが必ず世界を救うことが目的化しているドラゴンクエストシリーズの主人公とは違うところである。ドラゴンクエストについては書きたいことが山ほどあるが、それはまた別の日に譲ろう。いずれにせよ、孤立した都市や人々が、再び縄の結び目のように固く繋がっていくさまをサムは運び屋稼業を通して目の当たりにするのだ。

プレイヤーは、自然の彫琢 (ちょうたく) がこれみよがしに行き渡った山岳の稜線 (りょうせん) を背に、人々が首を長くして待つ荷物を背負い、時には急峻 (きゅうしゅん) な崖をよじ登り、登山者を寄せ付けぬその隆起した岩々の突端に手を掛け、ようやく人々の元に辿り着く。

バックグラウンドは何も説明されぬまま、成人男性の二倍ほどもある荷物を背負い、えっちらおっちら進むのだが、その独特な中毒性のあるゲーム性に舌を巻くのである。

かつて小島秀夫氏はメタルギアシリーズで、敵から身を隠すことに主眼を置いたステルスアクションゲームという一ジャンルを開拓した。敵と鉢合わせすれば問答無用でキルすべきというゲームならではの価値観に一石を投じた人物だ。

さらにはゲームの舞台にオープンワールドを採用しているが、オープンワールドもまた小島秀夫氏の再解釈が加えられる。例えば、同じ世界を旅する別のサムを操るプレイヤーと世界は同期されており、彼らの足跡の上を通るとそれがやがて獣道 (けものみち) になり、さらにはれっきとした道になっていくという。また、この世界に飛び込むプレイヤーたちに少しでも力になれるよう、梯子 (はしご) やパイルを打ち込んでおくことも可能なのだ。オンラインプレイの善意だけを自然に引き出すことに成功している。

本作は2019年12月に発売されたゲームだが、人々がつながりを持てず、〝地下シェルター〟での生活を余儀なくされている今、図らずもこのコロナ禍を予見するかのような黙示的作品になってしまった。「デス・ストランディング」は黙示録文学として、後世に記憶される名作になるかもしれない。(了)

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ニュースはつくられる

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二度目の緊急事態宣言から約三週間が経過した。

コロナ禍にあって、物事の真偽のほどについて自分の眼で見て確かめることができない歯がゆさがあり、どこかすべての被写体がぼやけたように映る。この一年、コロナ関連の報道を浴びるように摂取してしまった。本当はワクチンのように免疫力をつけるためにも〝接種〟しなければならない日々のニュース。批判的な視座が必要であるにも関わらず、日々の陽性者数の数値に一喜一憂してしまう自分がいる。

ニュースはつくられる──。そのことを痛感した一件がある。一度目の緊急事態宣言の発令後、どれほど人出が減ったか、あるいは減らせていないのかについてマスコミ各社は各地にカメラマンを派遣し、雑感 (ざっかん) 写真を取らせた。その際、話題になったのは休日の商店街や品川駅のコンコースでの出勤風景。自分の普段の出勤コースである勝どき駅からトリトンスクエアにいたる晴海通りの歩道も、往時 (おうじ) はよく報道カメラマンに抜かれた。

雑感写真を見ると、まるで外出自粛などどこ吹く風で、異常なほどの人、人、人。自粛要請があったにも関わらずその「密」さに、最初の印象は悪寒 (おかん) が走るほどだった。戸越銀座の近くに長年住んでいたこともあり、愛すべき戸越銀座のある種の〝賑 (にぎ) わい〟に正直悲しささえ感じた。

だがその後、戸越銀座商店街連合会や吉祥寺サンロード商店街振興組合の指摘で事実との乖離 (かいり) が顕 (あらわ) になる。その日、実際にはそんなに「密」な状態ではなかったという。

というのもこの写真、カメラマンであれば誰もが知る「圧縮効果」という技法を用いた写真なのである。圧縮効果は、主に望遠レンズを用いる。遠くの被写体を大きく写し、近くの被写体とのサイズの違いを少なくさせることで遠近感を弱め喪失させる手法だ。

この圧縮効果を意図的に用いると、催事の盛況ぶりや行楽地の賑わいを演出するかのような〝盛った〟写真を作図することができる。結果的に戸越銀座商店街や品川駅のコンコースが密に見えたわけだ。 人間の眼に近いかたちで捉えるような広角レンズや標準レンズを用いれば同じ画角であっても、そのようには映らないようだ。確かに戸越銀座は東京一長い商店街。圧縮効果にはもってこいの商店街かもしれない。

しかしまあ、この構図を意図的に演出したカメラマンはファインダー越しにいったい何を見たのだろう。売らんかな主義にまみれたデスク(上司)の喜ぶ姿だろうか。

また、このような鋭い指摘をいったい誰ができたのかについても興味深い。よく天文学の世界では「コメットハンター」と呼ばれるアマチュア天文家が意外にも多くの新星を発見することがあるという。今回も一部のカメラ愛好家がその事実の不誠実さを鋭く指摘したのかもしれない。

ニュースはつくられる──。この歪まぬ事実に改めて気付かされた一件であった。(了)

mainichi.jp

 

 

 

ドレス効果を履き違える受け子たち

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会社でドレスコードが撤廃されてから早一年。着ていく服やコーデに頭を悩ませる毎日だ。ドレスコードが撤廃されてもなお、スーツをかっちり貫く上司もいれば、私服でゆったり仕事をこなす同僚も多い。そんな中、私は独特のサイクルを貫いている。月・火はスーツ出勤、水・木・金は私服出勤というサイクルである。

ファッションを楽しむ過程で、ある〝気づき〟を得たのだ。その日何を着るかによって、着る人の心理は大きく左右されるという事実に。

会社員である自分はスーツを着ると、やっぱり気分が変わる。月・火は会社員にとっては鬼門。一週間の始まりで蹴躓 (けつまず) いてしまうことは避けたい。スーツでバシッと決めてその週の始まりの仕事を卒なくこなすのだ。ノー残業デーの水曜日から花の金曜日までは仕事も然 (さ) ることながらプライベートも充実させたい。会社帰りにふらふらと映画に行ったり飲みに行ったりと気軽に出歩け、夜の街に溶け込める私服の心地良さが堪 (たま) らない。

人は着る服によって心理状態を左右される──。心理学の用語で「ドレス (制服) 効果」というそうだ。ドレス効果は何もサラリーマンやOLだけに限定されたものではない。警察官や消防士などはこのドレス効果の恩恵を受ける職業の典型である。自己暗示がかかることで私服の時より遥かに勇敢に振る舞えるとされる。

さらに、ドレス効果は自己に対する影響ばかりでなく、他者に及ぼす影響もわかっている。

ウェーバー州立大学の研究者であるブラッド・ブッシュマン氏が行った実験にヒントがある。

街なかで無作為抽出した150人に対して「あそこでお金が足りずに困っている人がいるのですが、僕は今持ち合わせがありません。一ドルだけでも恵んであげてくれませんか」と道行く人に声をかける。彼はその際、意図的に三つの服装を使い分けて声を掛けた。

 

1. 消防士の服装

2. スーツ姿

3. カジュアルな服装

 

実験結果は皆の予想通りだと思う。消防士の服装が一番願いを聞き届けてもらえたのだ。承諾を得られた確率順に以下の通り。

 

1. 消防士の服装:82%

2. スーツ姿:50%

3. カジュアルな服装:44%

消防士のような権威性をまとった服装に、実は人の選択や決断は大きく左右されるのだ。

ある意味でそれを逆手に取っているのが、オレオレ詐欺かもしれない。オレオレ詐欺はオーナー、箱長 (はこちょう)、掛け子、受け子といったかたちでピラミッド型組織をなしているが、「受け子」はそのピラミッド型組織の最下層。現金やキャッシュカードを被害者から直接受け取る役割を担うがゆえに彼らは「受け子」と呼ばれる。「受け子」と呼ばれる人物の服装はたいていがスーツ姿である。ドレス効果を狙った戦略だろう。一寸先は闇、何が本物で何が嘘であるかわからぬ時代だが、取り締まる警察官も本気だ。オレオレ詐欺の被害が年々増加する中、警視庁は受け子を受け子だと見破る方法を公開している。スーツの姿が身体のサイズと合っていない、スーツにスニーカー、あるいはスニーカーソックスという不自然な組み合わせ、極めつけはネクタイが結べていない。受け子が掛け子に飛躍できず、受け子にしか留まりえないヤクザな組織の悲哀が、その崩れた〝ドレスコード〟に垣間見える。(了)

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三位一体改革で切られる福祉

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あの毒蝮三太夫 (どくまむしさんだゆう) がとにかく毒づきまくっている。それも老人に対してではない。NHKに対してだ。

あの江戸っ子口調で「そこのババア、まだ息してるか?」「おい、死ぬのを忘れちゃったんじゃねーのか」「俺に会うために、髪を整えてきたの? だったら顔もどうにかしてよ」などなど、憎まれ口を叩きながらも老人たちに愛のあふれる (?) 毒舌トークかます毒蝮三太夫。そんな彼が52年間続けるラジオ『ミュージックプレゼント』とは別に、ライフワークとして出続ける番組がある。開始以来、司会として14年間出演し続けてきたEテレ「介護百人一首」だ。2021年1月27日の再放送を最後に番組の歴史に幕を下ろすこととなった。

毒蝮三太夫は「悩んでいる人がごまんといる今、やめるべき番組ではない」と語り、至極まっとうな意見で鋭くNHKの姿勢を問うている。番組スタッフからは「予算と人手がかかるから番組を打ち切ったのだ」と打ち明けられたという。予算と人手の言い訳だけで乗り切れるようなら、年末の紅白歌合戦だってその番組の改廃に対して議論の俎上 (そじょう) に載せるべきだろう。

それこそ民放では人手不足でとても手が回らないような「福祉」をテーマに熱心に番組制作を続けてきたNHK。「三位一体改革」の先鋒がこれかと思うと、先が思いやられるばかりである。

そもそもNHK三位一体改革総務大臣である高市早苗氏が言い出した肝いりの案件だ。総務省に首根っこを押さえられているNHKは、2021~2023年度の経営計画で、受信料の値下げと、BS/ラジオのチャンネル削減を表明。衛星契約増加などによる予算の肥大化から縮小へと舵を切ることとなったが、「受信料」が国民の負担金であるがゆえに「業務」の合理化・効率化を推し進め、視聴者へと適切な利益を還元するための「ガバナンス」が確保されるような経営体制へと見直す──。「受信料」「業務」「ガバナンス」こそが三位一体改革の骨子である。

その結果、合理化・効率化の先鋒で早速切られたのは福祉である。福祉をこうもあっさりと切り捨てるあたり、新自由主義者の〝面目躍如〟である。

視聴者にとっても本当にこの改革は自身にとって良いものなのかどうか今一度再検討してほしい。仮に受信料が10%値下げになったとしても、各家庭の負担減は衛星契約でわずか月約220円である。それと引き換えに、それこそ民放では予算不足と人手不足でとても手が回らない福祉、医療、教養、紀行、語学、海外のストレートニュースといったジャンルの番組がなくなることが本当に良いことか。

まして世はまさにアーカイブ時代である。とにかく視聴率などに囚われず黙々と作る手を止めさえしなければ良質な番組はアーカイブされ、いつか必要なときに必ずあなたの目の前に現れる。先の「介護百人一首」もそうだ。

三十一文字 (みそひともじ) は時代を超越して、介護に生きる明日の我々に語りかけるだろう。最後に「介護百人一首」で取り上げられた何作かを紹介して終わりたい。

 

進みゆく病魔に耐えるせつなさを短歌にすればすべて字余り

今日は母昨日は娘明日は何介護の日々は名優となれ

ぶらり旅人は徘徊 (はいかい) と言うけれどただ花束を妻に買うだけ

(了)

www.nhk.or.jp

 

 

主を失った食器

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出典:上田市立博物館 - 箱膳 (https://museum.umic.jp/hakubutsukan/collection/item/0112.html)

父方の祖母は昭和一桁世代であり、今も93歳ながら元気に生きている。そんな昭和一桁世代のおばあちゃん。手の動きがおぼつかないほどには当然ながら年老いている。食事の時、喉をつまらせることもしばしばある。そんな時、近くにいる孫の私にお茶が欲しい、という。けれども、彼女はそのお茶をコップに注いで欲しいと言ったことは滅多にない。たいていは飯茶碗に注ぐのだ。幼い頃から不思議に思っていた。不思議に思っていたどころか、行儀が悪いのではないか、と思っていた節もある。しかし、これは「箱膳 (はこぜん)」文化の名残であろうことにあとから気づいた。いわゆる〝生活の知恵〟の産物だ。

時代劇などでは、家長 (かちょう) が上座 (かみざ) に陣取り、家族らが整然と揃い、黙々と目の前の食べ物に箸を滑らせるシーンがある。現代に置き換えれば、その家族の前にあるのは卓袱台 (古い!) であったり、テーブルランナーが真っ直ぐに引かれたキッチンテーブルであったり、はたまた行きつけのバーを模したような少しお洒落なキッチンカウンターかもしれない。だがその昔は「箱膳」が鎮座していた。

たいていの箱膳は檜 (ひのき) の一枚板で作られ、柿渋 (かきしぶ) で着色された素朴な風合いの箱形の入れ物。その中には一人分の食器 (箸、飯茶碗、汁椀、湯呑茶碗、皿一式) がまとめて入っている。食事の際は、箱膳の蓋を裏返し、凹上になった蓋に、食器一式を並べて「膳」として使う。

そしてここからが重要なところだが、食事の後は、お茶を飯茶碗や汁椀に入れて、水分を失って凝固 (ぎょうこ) し始めた米粒などを箸や漬け物でこそげ取り、そのお茶をぐっと呑み干した後、最後に器に残った水分を布巾で拭い、お粗末様。食器を再び箱の中に戻すのである。本当に水洗いするのは月に一度か半年に一度程度だという。江戸時代から続く文化であるが、水がいかに生活の中で貴重なものであったかをありありと反証するかのような慎ましい文化である。

今は「箱膳」という文化こそないが、食器棚がある。一人暮らしならば必要ない家具だが、家族で暮らすにはそれなりに大きな食器棚が必要だ。

母は作る料理のレパートリーが豊富だったからその料理に見合うような食器をたくさん持っていた。そんな母が亡くなったときから、実家の食器はその役割を実質終えていた。家族で囲んだ食卓とその時に並べた食器が、今になってこんなにも恋しく愛しいと思うのはなぜだろう。

台所に射し込む夕間暮れの淡い光が、色とりどりのかたちのコップを透過し、乱反射し、母の姿に後光が射していた。

そこに並ぶのは、絶対に共有したくなかった親父のコップ、引き出物でもらったはずなのに、割れてしまったことでつがいを失ったコップ、母がごくごくたまに飲むときだけに使ったワイングラス、「こんなこいるかな」のやだもんがすっかり色褪せ剥げ落ちたカップ、滋味さえ感じさせる端の欠けたワンカップ大関……。

今は主を失ったコップは露 (つゆ) と消えた。何もかもがすべてなくなったのである。(了)

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