主を失った食器

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出典:上田市立博物館 - 箱膳 (https://museum.umic.jp/hakubutsukan/collection/item/0112.html)

父方の祖母は昭和一桁世代であり、今も93歳ながら元気に生きている。そんな昭和一桁世代のおばあちゃん。手の動きがおぼつかないほどには当然ながら年老いている。食事の時、喉をつまらせることもしばしばある。そんな時、近くにいる孫の私にお茶が欲しい、という。けれども、彼女はそのお茶をコップに注いで欲しいと言ったことは滅多にない。たいていは飯茶碗に注ぐのだ。幼い頃から不思議に思っていた。不思議に思っていたどころか、行儀が悪いのではないか、と思っていた節もある。しかし、これは「箱膳 (はこぜん)」文化の名残であろうことにあとから気づいた。いわゆる〝生活の知恵〟の産物だ。

時代劇などでは、家長 (かちょう) が上座 (かみざ) に陣取り、家族らが整然と揃い、黙々と目の前の食べ物に箸を滑らせるシーンがある。現代に置き換えれば、その家族の前にあるのは卓袱台 (古い!) であったり、テーブルランナーが真っ直ぐに引かれたキッチンテーブルであったり、はたまた行きつけのバーを模したような少しお洒落なキッチンカウンターかもしれない。だがその昔は「箱膳」が鎮座していた。

たいていの箱膳は檜 (ひのき) の一枚板で作られ、柿渋 (かきしぶ) で着色された素朴な風合いの箱形の入れ物。その中には一人分の食器 (箸、飯茶碗、汁椀、湯呑茶碗、皿一式) がまとめて入っている。食事の際は、箱膳の蓋を裏返し、凹上になった蓋に、食器一式を並べて「膳」として使う。

そしてここからが重要なところだが、食事の後は、お茶を飯茶碗や汁椀に入れて、水分を失って凝固 (ぎょうこ) し始めた米粒などを箸や漬け物でこそげ取り、そのお茶をぐっと呑み干した後、最後に器に残った水分を布巾で拭い、お粗末様。食器を再び箱の中に戻すのである。本当に水洗いするのは月に一度か半年に一度程度だという。江戸時代から続く文化であるが、水がいかに生活の中で貴重なものであったかをありありと反証するかのような慎ましい文化である。

今は「箱膳」という文化こそないが、食器棚がある。一人暮らしならば必要ない家具だが、家族で暮らすにはそれなりに大きな食器棚が必要だ。

母は作る料理のレパートリーが豊富だったからその料理に見合うような食器をたくさん持っていた。そんな母が亡くなったときから、実家の食器はその役割を実質終えていた。家族で囲んだ食卓とその時に並べた食器が、今になってこんなにも恋しく愛しいと思うのはなぜだろう。

台所に射し込む夕間暮れの淡い光が、色とりどりのかたちのコップを透過し、乱反射し、母の姿に後光が射していた。

そこに並ぶのは、絶対に共有したくなかった親父のコップ、引き出物でもらったはずなのに、割れてしまったことでつがいを失ったコップ、母がごくごくたまに飲むときだけに使ったワイングラス、「こんなこいるかな」のやだもんがすっかり色褪せ剥げ落ちたカップ、滋味さえ感じさせる端の欠けたワンカップ大関……。

今は主を失ったコップは露 (つゆ) と消えた。何もかもがすべてなくなったのである。(了)

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