小野不由美『東亰異聞』

きょうのことば

『物の怪の仕業でしょうか』

「さてね。いずれにしても夜の住人なのは違いない。だけれどねえ、夜の住人だからといって、物の怪と決めつけるのはどうだかね。いちばん暗い闇は人の胸の内に巣くうものだから」〈人形遣い

──小野不由美『東亰異聞』より

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 小野不由美『東亰異聞』を読みました。本作についての批評です。

 今回は趣向を変えて怪奇・伝奇小説の名手、小野不由美氏の作品にとりかかる。図書館司書推薦本として掲げられた本を手にとったが、大当たりであった。物語のスケールもさることながら、この流麗かつ、散文とも違うどこか韻律の豊かな文体に大いに魅了された。したがって今回の本文は西施 (せいし) の顰 (ひそ) みに倣 (なら) うを覚悟で、真似てみるのである。うっとりする文体をオール (櫂 かい) に、物語という船はぬばたまの川面 (かわも) に溶け合っていく。

 

 舞台は帝都・東亰 (とうけい)。江戸から東亰へと名称を変えたのは、慶応四年は七月。同年九月には明治へと改元。東亰奠都 (てんと) を迎え名実ともに、東亰は帝国の帝都となった。

 帝都誕生から二九年。近頃、異形 (いぎょう) の者が宵闇を蠢 (うごめ) き悪事を為していると、嘘か真かそんな噂が立っていた。

 

 時刻はとうに宵の口。霊巌島 (れいがんじま) から八丁堀へと一人とぼとぼ向かう子供がいる。名を長松というこの子は、提灯あかりを頼りにお使いを頼まれていた。宵の口とはいえど、大人ともなれば「さぁこれから」という時間である。賑やかな音が遠くこだましている。そんな鉦 (かね) や太鼓の音に混じって妙な声が聞こえる。それも一人ではない。大勢のそれだ。


「かやせやい、かやせよお」

 

 叫ぶ声が耳をとらえて離さない。どうやら夕暮れ時にかくれんぼをした莫迦 (ばか) な子供がいたのだ。子供の姿は杳 (よう) として知れないようであった。長松の近所では拐 (かどわ) かしにあった子供もいた。当節流行りの神隠しである。
 この夜道、神隠しやら怪しげな見世物とやらが世間を騒がせているというのに、提灯ひとつを頼みに出かけていく自分の浅はかさを思った。でもこれはれっきとしたお使いなのである。
 心細さが足を急かせる。すると突然、ぽおっと明かりが灯るのを目にした。蛍売りだろうか。それにしちゃあ時期が時期である。ましてやあの大きさ。蛍ではないとなると、いよいよ興を覚える。いざ。声を掛けようとした矢先、背後から若い女の声に呼び止められる──。

 

 物語の導き手は、魂振り (たまふり) でも掛けられたか、しゃべる木偶 (でく) とその木偶遣い。彼らによって音もなく、違和もなく、異世界へと誘 (いざな) われる。文楽から黒衣 (くろこ) ごと抜け出てきたようないでたちである。しゃべる木偶は娘島田に結わえた別嬪 (べっぴん) さん。長松の体験した話を皮切りに、夜闇の恐ろしさを語る。その掛け合いに語り口といったら、まるで人形浄瑠璃を目の前で目にしているようである。彼らは言う。人間様は明治になってこのかた、闇を払おうと懸命に維新だ、開化だと騒いでおる。ぬばたまの夜闇を晴らさじとする試みなぞ、所詮、人間の浅知恵。笑止。人魂売り、辻斬り、易者、火炎魔人、闇御前と、百鬼夜行のごとく、この帝都を徘徊 (はいかい) し、時には人の生き血を啜る (すする) のだ。でも、でもだ。夜闇の怖ろしさをよくよく心得ている人形遣いであるが、それは必ずしも物の怪 (もののけ) の仕業には限らないという。〈きょうのことば〉はここからだ。


「さてね、いずれにしても夜の住人なのは違いない。だけれどねえ、夜の住人だからといって、物の怪と決めつけるのはどうだかね。いちばん暗い闇は人の胸の内に巣食うものだから」

 

 ちかごろ、帝都に跋扈 (ばっこ) する者ども──。
 一方、である。妻子もなければ庇護を求めてくる親もない、太平楽なご身分で記者稼業を身過ぎ世過ぎとする平河新太郎。目敏く (めざとく) も、近頃、帝都に跋扈する魑魅魍魎 (ちみもうりょう) の怪事について取材を続けていた。手蔓 (てづる) を求めて、ここ便利屋の万造に会いに来たというわけである。


 怪奇譚に驚く風でもなく、聞き入る万造。なんでも知っている万造でも、これらの話はにわかには信じ難い話だと思えた。人形遣い、人魂売り、辻斬り、火炎魔人、闇御前、土場芸 (どばげい) にしちゃあ度が過ぎる。江戸も更けて明治の世の中。開化、開化の申し子たちも、これだけの異聞奇譚 (いぶんきたん) が広まれば夜道もろくに歩けやしない。茶屋遊びにも水が差されるってもんでさぁ。風が吹けば桶屋が儲かる──。風下にある便利屋もしたがって商売上がったりということで、この怪事、大変迷惑なことだった。この二人、結託してこの怪事の解決に立つこととなった。

 時代を隔てても、取材のイロハは変わらぬものである。餅は餅屋、ということで、土場芸連中に話を聞くこととなった。ついで犠牲者のつながり、家族、縁者、経歴と探りを入れてみる。事件の洗い直しだ。

 二人がこの話に首を突っ込んでから五日。闇御前の放埒 (ほうらつ) 極まる振る舞いは度を越していた。もうこれで六人目の被害者である。万造の方でも探りは入れていた。どうも初動の当ては外れたようである。被害者は誰もが毒にも薬にもならぬ凡俗な人物ばかり。ただ一点、この事件に共通するのは「夜」に起きたという点だけであった。


 事件はお宮入りしかけたが、さしもの闇御前にも闇に隠しきれぬものでもあったか、目撃者が一人だけいたとの情報を新太郎は掴んだ。なんでも、腕を切られながらも命からがら助かったのだという。ついては二人揃ってその人に話を聞いてみようじゃあないか、と連れたって御仁の邸宅に足を伸ばす。


 名を鷹司常熙 (たかつかさ つねひろ) という。元摂関家鷹司家の鷹司 (たかつかさ) である。やんごとなき御仁が被害者と来たものだ。どおりでこの手の情報が新聞に掲載されなかったわけである。外交通として腕をならした先代・熙通 (ひろみち) とは似ても似つかぬ青年であった。立ち居振る舞いもどこか洗練されていて、品の良いお坊ちゃまであった。家の者からは「常 (ときわ) さま」と呼ばれ、たいそう慕われている。常の為人 (ひととなり)、それを計り兼ねるうちにその夜は別れた。しかし、考えてみればこの一件、闇御前の単なる挨拶程度のものに過ぎなかったのかも知れぬ。

 

 重ねて事件は起こる。こたびは火炎魔人である。何でも舶来物の小間物を扱う伊沢屋に姿を現し、業火に灼かれおっちぬ寸前でここ第二医院に運ばれたとか。愚にも付かぬ話、などとこれを見逃しちゃあ記者がすたるということで、急ぎ病院へ。そこで出くわしたのはなんと良家のお坊ちゃま、鷹司常熙その人であった。聞けば彼の使用人こそが怪人・火炎魔人による被害者だとか。数奇な巡り合わせ。お見舞い半分、この使用人に取材を申し込んだ。これまで毒にも薬にもならぬ被害者像が、ここにきて、にわかに輻輳 (ふくそう) し始めた。前日は鷹司家当主、そして今日は御家人。さらには両の手に収まらぬほどの被害者数へと達していた。となると、これは鷹司家への何らかの恨みを持つ者による復讐劇なのだろうか。とはいえ、少なくとも当主であらせらる常さまにはそのような陰を微塵も感じさせない。となると、先代の煕通 (ひろみち) さまの代で何らかの恨みを買った可能性がある。事件をもう一度見つめなおすこととなった二人。
 もう一度左吉に請おうと、第二医院に足を運ぶ。もう驚くこともないが、三度 (みたび)、常熙さまにお会いする。といっても今日は場の雰囲気が何か違う。脇におわすは女の姿。その姿、なんとも婀娜 (あだ) たる年増の女という感じで、風景から逸脱したような、いや、芝居から抜け出たような女であった。訊けば奴さんの恋人であるという。それが、さきごろ、常 (ときわ) の邸宅で図らずも当主の口からこぼれ落ちたおもいびとの姿態だった。名を有田菊枝という。
 この女の口の聞き方、また、言動の端々に悪意交じる皮肉にも、職業柄もあってのことか、決して臆することはなかったが、新太郎は関わりを持つのはよそうと判断した。けれども、鷹司家に関わりのある身、忠告だけはしておいた。しかし、ここで菊枝から思わぬ発言が飛び出す。


「ほうら、御覧なさい。とうとう直さんは尻尾を出したじゃありませんか」


 ──御家騒動。直こと鷹司直熙 (たかつかさ なおひろ) は常とは同年同日 (明治9年6月14日) の生まれ。不運なことに先代・熙道 (ひろみち) には正妻の子である嫡子 (ちゃくし) に恵まれなかった。よってここに跡取りをめぐって冷戦が起こっていたのである。戸籍上の長男は直であったが彼は風来坊の身。廃嫡 (はいちゃく) する件でももめていたようだった。次期当主は常 (ときわ) という声が圧倒的だったが、しかし、その恋人・有田菊枝が障壁ともなっていた。
 御家騒動とこの怪事。どこで糸がつながっているかはわからぬが、この手の取材は記者にとってお手の物である。こと明治に至ってはこの種の騒動は枚挙に暇がないのだ。

 まずは御家騒動の件。廃嫡と御家騒動とは切っても切れぬ悪縁である。江戸は遠くなりにけり、とはいうが、御一新 (ごいっしん)、御一新と言い募ったあの明治維新がこさえた家制度は、その意味で江戸時代の家父長制の旧弊 (きゅうへい) を引き継いだものであった。直の廃嫡の理由はひとえにその反社会的な言動にあった。藩屛 (はんぺい) には似つかわしくもない、いわゆる不良華族の一である。そも華族の子弟は原則として学習院に入学することが義務付けられている。しかし直は便宜的に入学しただけであり、民権論者との交遊を密にしていた。中江兆民末広鉄腸、星亨などと交際の幅は広い。


 当てをつけて、直の為人 (ひととなり) を洗ってみよう。すると、ドンピシャリ。声がけした最初の人間が、既に鷹司の姓を語らぬ中畑直だった。粗末な外観からは想像できぬ洒脱 (しゃだつ) な一軒家に通された二人は、そこで直の許嫁 (いいなずけ) と自称する少女に出くわす。名を九条鞠乃といった。これでいよいよ御家騒動の真相が見えてきた。
 簡単な話である。直、常、ともに同年同日の生まれで、嫡子ではない庶子 (しょし)。一方は不良華族で、一方は典型的な皇室の藩屛 (はんぺい)。次期後継者の器は常 (ときわ) にある。しかし、その常に相続権はなく、不良華族の直に相続権がある。さらに間の悪いことに、どちらも次期後継者の席には未練も興味もないときた。直が言う。「いっそ輔 (たすく) が継いでくれればいいいのだがな。あれなら何の問題もないはずだ」。毛利藩士の娘にして三番目の側室・小里 (こざと) の子、鷹司信輔 (たかつかさ のぶすけ) である。京都で永らく暮らしていると調べはついていたが、近頃東亰に住まいを移したようであった。

 いよいよ御家騒動と怪事は糸、どころか注連縄 (しめなわ) で結ばれたようである。

 

 折も折、またしても凶報がもたらされた。行く先は第二医院。直もまた闇御前の毒牙にかけられたようであった。幸い大事には至らずに済んだ。直は証言する。あれは確かに闇御前。噂の通り、白塗りに赤い打掛、吹輪 (ふきわ) に花櫛 (はなぐし) の赤姫姿の鉤爪使い。もうこれ以上被害者が出るのを見過ごせない。一記者である前にひとりの人間として、この事件を解決したいと新太郎は決意を新たにする。ついてきてくれるか、と万造に差向けると、二つ返事で引き受けるのであった。


 推理は二つの魔性に及ぶ。火炎魔人と闇御前である。同じく人の血肉を喰らうものだが、しかし、そこではたと気づく。「河岸 (かし) が分かれている」。河岸 (かし) とは「何か事をする場所」のことであるが、大抵は飲食や遊びをする場所のことをいう。火炎魔人は概して高いところがお好きである。明治に入ってからというもの東亰に建つ建築物の高さ制限が撤廃されたのだ。多く、高所からの展望が見世物になるということで、その手の商売が繁盛し、摩天閣 (まてんかく) さながらの建築物がポツポツと東亰に増えた。そこを火炎魔人は本花道 (ほんはなみち) としたのである。河岸が分かれているとくれば、本花道に対して仮花道 (かりはなみち)。仮花道を舞台とするは闇御前である。人気のない場所を好んで生ける人間を骸 (むくろ) へと仕立てる。
 推理はついに冴え渡り、火炎魔人と闇御前、この二者は同一人物ではないか、いや、この魔性の魍魎 (もうりょう) どもすべて人間の仕業なり、と結論づける二人だったが……。

 さてさて、これより先は無粋 (ぶすい) というもの。是非、本書を手にとってほしい。あなたの眼は、このどこまでいってもあなぐらを思わせる闇を晴らせるか否か。

 それはそうと、最後の展開は終章「時代転変」の名にふさわしいものとなった。

 人の世にはいっとう不向きの時代の到来である。陸地に佇む (たたずむ)、ありとあらゆる開化を象徴する文明が呑み込まれていく。それは全く突然に、ゆくりなく、威厳というものをなくしたのだ。家康公によってたわめられた江戸の地は、構造物を排し、その自然の摂理を恢復 (かいふく) させてゆく。(古)地図もまた威厳を失ったのだ。

 さすが〈異聞〉と称するだけあって、まっこと珍奇な話である。けれども珍奇だと異聞だと切り捨てられぬ物語を同時に見て取る。私の眼が物の怪 (もののけ) のそれと入れ替わったのだ。
 有為転変 (ういてんぺん) は世の習いとはよくいうが、その有為転変こそを望む人間の姿はなんら変わることはない。時代をのぼってもくだっても維新だ、開化だ、改革、変革だとの声は引きも切らない。でもその熱が冷めた後に来たるものにこそ我々は目を光らせなければならない。人の世が拵 (こしら) えたものとは似ても似つかぬ異界が顕現 (けんげん) しやしないか。気づいた時にはもう手遅れ、そんな警鐘にも似た終局でもある。構造物に亀裂やひびが入るのは、それは遊びがないからだ。覆い (おおい) かためてしまうから、いざそれが出てきた時に、腰を抜かしてしまう。覆いかためてしまうから、異界の者は必死でそれを跳ね返そうとする。人形遣いは言う。

「闇とは、黒でも白でもない。ただひとつのもので塗りつぶされたもののことだ。夜とはそのように、ただひとつのもので塗りつぶされたもののことなんだよ」

 文庫版の解説には、文芸評論家の野崎六助さんが寄稿しているが、彼の解説もまた、物の怪の眼に入れ替わったそれである。補講にしても補ってあまりある良い解説である。是非ご一読を。

 

 どろり、はらり、ちらり、ことり、ぬらり……。どこか死を匂わせる擬態・擬音の副詞が、物語の端々を彩り、つーっと背筋を撫でられるかのような感覚に絶えず襲われるような、文体に魅入られる小説である。
 とっぷりと暮れた夜に宵立ち (よいだち) しようとなさる方々。「怖かないやい」とどうぞ強情を張らず、ひとりで歩かねばならぬ身の不運を悔やみつつ、道を往くことだ。夜の者に拐 (かどわ) かされぬよう、魂魄 (こんぱく) となって還って来ぬよう。(了)