竹内真『図書室のキリギリス』

  • きょうのことば

「そりゃまあ、ネットなら円花蜂 (マルハナバチ) の意味くらいすぐ分かるかもしれない。でもね、調べごとをしたい利用者に、情報を探す手順を提供するのも司書の仕事ですよ。学校図書館ってのは、教師が教材に使う資料を探しに来ることもあるし、生徒が調べ学習に来ることもある。そういう人に『ネットで調べて』って答えるだけなら図書館の存在意義がなくなっちゃいます。こういう資料を使ってこんな風に調べられるよって、道順を示すことができたらいいと思いませんか?」
「それはそうですけど」
「でしょ? それをパスファインダーっていうんです。道順に詳しい案内人ほど有能な司書ってわけですね」〈若森先生〉

──竹内真『図書室のキリギリス』より

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 竹内真『図書室のキリギリス』を読みました。本作についての批評です。

 「本のための本」「本についての本」「本を探すための本」「本を好きになるための本」……。書いていてキリのないほどに形容できる自己言及的な作りを持つ本だが、このようなジャンルの本にはおよそはずれがない。非常に面白い本だ。三上延ビブリア古書堂の事件手帖』や有川浩図書館戦争』の大ヒットなど、このジャンルのヒットは読者の記憶に新しいことだろう。本書もそうした一作になってほしいと願う。ちなみに本は本でも、本を扱うお仕事、学校図書館・司書教諭のお話である。

 

 主人公・高良 (たから) 詩織はバツイチになったことを機に、一念発起。求職中の身である。年来の友人で高校教師の井本つぐみから、司書教諭を探しているとの知らせ。願ったり叶ったりの話が舞い込み、いざ面接へ行くと、かつての出版社勤務の経歴も買われてか、採用に到る。けれども、本当の司書教諭ではなく〝なんちゃって司書〟として採用されたのだ。慣れない司書としての仕事もこなしつつ、会計処理といった雑務もこなしつつ、ダベリりが趣味のおばさんをいなしつつ、言い寄る男もあしらいつつ(?)、けれども本を読む愉しみの伝道を忘れない高良詩織の成長譚である。

 人によってはこういった設定が受け付けない虞 (おそれ) もあるかもしれないが、詩織には少し特殊な能力がある。指先で何かに触れると、残留思念とでも言うべきか、人の〈思い〉が詩織へと直接雪崩れ込んでくる、そんな体質の持ち主だ。いわゆるサイコメトリーである。
 よき理解者がいれば別の話だが、こんな超能力を持っていれば当然、鼻つまみ者の幼少期を送るのは必然のことである。しかし、詩織にはとある苦い経験からこの能力を誰にも吹聴したりはしなかった。今では超能力というより、人より勘が鋭いといったぐらいで、この能力とも付かず離れずの距離を保ちつつ、性格もひねくれることなく今の詩織がここにいる。
 ものには残留思念がどうしたってつきまとう。ましてや本に至っては尚更だろう。書籍や古本に触れて、もし何も感じ取れなかったら、その本は誰の心を打たなかったも同然。反対に手間と暇を惜しまず、丹念に本に向き合い、心からの感動を覚えた本には、その読み手の得も言われぬ残留思念が残るのだ。〝手に取るようにわかる〟とはこのことだ。うん、なんちゃって司書にしては申し分のない能力である。

 

 勤務初日、甘木校長が「着任祝いに」と言って一冊の本を差し出す。とはいえ詩織個人に宛てたものではなさそうだ。校長には学校図書館へ本を寄贈する趣味があるらしい。詩織にはこうも言い添えた。「寄贈者の名前はこうしてもらえますか?」「円花蜂 (マルハナバチ)」
「なぜ?」詩織の問いたげな表情を校長はのらりくらりとかわしつつ、謎掛けや暗号みたいなもの、とはぐらかす。いくつも提示される謎の応酬。この掴みによって、ぐっと引き込まれた。
 校長は言う。出版社勤務の職務経歴で採用したというよりも、彼女の日課である、歯に衣着せぬ書評ブログを読んだことが採用のきっかけとなったらしい。ついてはその能力を活かし、「図書館だより」で一筆したためてくれれば、わが校の生徒も大いに本好きになりますぞ、という提案だった。
 こうして「マルハナバチ」の謎解きが詩織の勤務初日、最初の仕事となった。詩織の謎解きのくだりは、調べ物が好きな私にとって参考になる。まずは図鑑から入る。学名・和名・英語表記ときて、続いてハチについての寓意(寓意ときたらなにはともあれ『イソップ寓話集』だ)、あるいは寄贈・寄付についての寓意、ハチを扱った物語……といった具合に奥深く分け入る。調べ物をしていくうちにずりずりとレールから逸 (そ) れていくあの感覚もまた良い。司書の物語にもかかわらず、一般に知られた〝レファレンスサービス〟の語は一言も出てはこなかった。けれども、詩織を始めとした登場人物たちの謎解きの作法にこそ、レファレンスが宿っている。そして挿入された謎解きもまさに著者渾身の一作。ひねりにひねってあり、ミステリ好きを唸 (うな) らせること請け合いだ。〈きょうのことば〉は詩織が英語教師兼司書教諭・若森先生からマルハナバチの謎解きを促されるシーンから。

 

 また、宙ぶらりんななんちゃって司書という立場だからこそ、気づくことが出来た様々な事実。これがいっぱしの司書なら「学校図書館とはかくあるべし」といった決然とした態度で生徒に接しがちになり、挙げ句には押し付けがましくもなるところだろうが、詩織はなんちゃって司書であることに引け目も感じているのか、実に柔軟だ。新しい司書像の誕生だ。彼女なりの〈Librarian-ship〉を追求している。
 生徒たちは本当に自分勝手に図書館を使い倒している。詩織もその事実に驚き入り、愉しんでいる。生徒たちにとって図書館は、ただ単に調べ物をするだけの場所ではないのだ。自分の居場所を探す子、作詞の詞想を練る子と実に様々だ。


 物語のキーともなる「貸し出しカード」について一部の若い読者には説明が必要かもしれない。「貸し出しカード」とは、本の裏表紙の内側に付された紙製のポケットに収まる貸し出し履歴を記入するカードのことだ。小規模な学校図書館であれば、かつては名前も記入されていたものだ。学年切っての読書家の名が数々の本に刻まれ、先鞭 (せんべん) をつけられたことに悔しがったかつて。好きな人の名前があると、本の話題で盛り上がれるかな、と妄想したあの日々。あるいは続き物を借りたのに次の巻が返却されていないとなると、早く返せと直近に借りた野郎の元に殴り込みにいったりと、かつてはドラマがあったのだ。

 学校図書館であれ公共図書館であれ、今やバーコード方式での貸出の管理は一般的になった。したがって以前のようなアナログチックな貸し出しカードでの管理方法は消え、本が〝勝手に〟人と人とを結ぶようなことは消えた。今はなき姿への憧憬 (しょうけい) か、「本をめぐる本」では貸し出しカードをめぐる夜話 (やわ) も多かったりする。ジブリアニメ『耳をすませば』などはその代表作だろう。

 私などは、小さいころからポケットに入った貸し出しカードに触れるたびに、これを「カンガルーの育児嚢 (いくじのう)」に見立てていたものだ。いわゆるカンガルーの子育てのためのポケットだ。カンガルーをはじめとする有袋類 (ゆうたいるい) に特徴的なのは、赤ちゃんをまだ未熟な状態で産み、そのポケットの中を通じて成長させる。人間も同じようなものだ。産み落とされて成人するまでは実に未熟な生きものである。母なる本から栄養を受けつつ、思惟 (しい) する大人へと成長していくのだ。自分で言うのもなんだが、言い得て妙である。

 今はなき貸し出しカード。デジタル化で味気なさを感じるのも正直なところ。だからこそ、司書が本を通して人と人とを結びつける姿、あるいはその重要性が浮き彫りになるのだ。

 そうして良い本に触れれば自然と「この本を読んで欲しい」「この本について語り合いたい」という気持ちも連鎖する。それを手助けするいわば〝結い (ゆい)〟のようなものも読書界ではにわかに活況を呈している。それが本書でも紹介されるビブリオバトル(本書では「ブックトーク」がそれに近い)や「本の街」「ブックタウン」と称する町おこしの取り組みだ。日頃ニュースで目にするトピックスもふんだんに盛り込まれている。もちろん、昔ながらの読書週間や読書会も廃 (すた) れることなく息衝いている。

 このような取り組みは一見騒がしいようだがしかし、読書は本来的に孤独な営みである。いや、正確を期そう。傍 (はた) から見れば孤独のように思われるかもしれないが、実はそうでもない。物語の登場人物たちの輪の中に投げ出され、観測者としての役割を勝手に担い、主人公の独白に物言えずとも耳を貸し、知らず知らずのうちに対話を試みている。孤独とは無縁にも思われるがしかし「孤独と対峙している」なんていわれた方がかっこいいのは確か。読書会などはつまり、この孤独な営みに身を委ね、まったき個を確立した人間たちによるイベントであり、私などは騒々しさの中に静謐 (せいひつ) の応酬を垣間見るのだ。

 

 さらには著者創作の「ブックマークコンテスト」なるイベントも最終章で登場する。概要を説明すると、自分がおすすめしたい本にキャッチコピーをつけ、まっさらのしおりに書いて応募。応募作は壁一面に張り出され人気投票へ。最終的に優秀な作品を読書週間中展示し、本当に使えるしおりとして見栄えを調 (ととの) え利用者に配布する。そんなイベントだ。
 これなどは、この本自体が話題を呼べばひょっとしたら多くの学校・公共図書館で採用されるかもしれない。と同時に、昏 (くら) い部分にもぜひスポットライトを当てて欲しい。というのも、本書では学校司書の雇用形態についての問題点もしっかりと言及している。話題になった暁 (あかつき) には、そこも言挙げ (ことあげ) されてほしい点である。

 さて、文化祭当日、そして図書委員の生徒たち最大の見せ場であるブックトーク。「本なんて読んだこともない」と公言して憚 (はばか) ることのなかった大隈くんの紹介する三冊がこの物語の白眉 (はくび) だ。図らずも図書委員となった大隈くんは詩織を初めとした本を愛して止まない人間たちと出会い、劇的に変わっていく。夏休みの間、彼はあてどのない放浪に北海道くんだりまで行くのだが、ヒッチハイク中、あるトラック運転手に拾われたエピソードをブックトークで語る。その事実が詩織のわだかまりある過去を氷解させてしまうのだ。
 ここまで劇的ではないにせよ、大なり小なり、本を愛する人たちにとってこういった経験には覚えがあるはずだ。私などは先日、ロックシンガーのジャニス・ジョプリンについて友人ととりとめもなく会話していたところ、翌日手にとった本の中で、またしてもパール (ジャニス・ジョプリンの愛称) について語り合う偶然に恵まれた。示し合わせたように現れる偶然に恍惚 (こうこつ) となる。もはや「約束されたセレンディピティ」と言っても良い。本が人と人とをつなげるセレンディピティは我々〝本の虫〟にとっての最大の喜びだ。
 このような、虚と実の往還 (おうかん) がこの物語に厚みをもたせている。人間は物語なしには善き人生を送れないのかもしれない……。そんなことを感じさせる本だった。本好きの人間でなくとも、この小説はぜひおすすめしたい。本にまつわるトリビアルな知識に溢れてはいるが、決してペダンティックに傾いた書物ではない。魅力的な人物たちが織りなす物語であるが、紙幅の都合上、その魅力を思う存分に発揮出来ていない人々がたくさんいる。詩織の前任者・永田千鶴などはその典型だ。シリーズ化を楽しみにしたい。(了)